中村兵衛 ~明治の作家~

 S新聞社のS女史から連絡。

 会わせたい人ありとのことで早速にお膳立て。某日午後、喫茶ダンケにて会合。

 お会いしたのは、同社の社史編纂にたずさわるK氏。おしゃべりし情報交換したのは、明治~大正時代の1人の作家のこと。

 

 中村兵衛、という。

 国会図書館にはこの人の本が29冊もある。

 明治末の作家としては異例に多い。なにしろ書き幅が広い。

 

  • 『魔の池 : 秘密小説』 1907(明治40
  • 『探奇小説:志士の恋』1908(明治41)
  • 『蛇屋敷 : 怪異小説 
  • 『左甚五郎 : 名人奇談 
  • 『侠客浦賀の山三』1909(明治42
  • 『血染の手巾 
  • 『児島長年 : 勤王志士』
  • 『お俊伝兵衛;実録講談』1910(明治43
  • 『女侠水月尼』
  • 『怪傑振袖太郎』
  • 『敵国の妻 : 事実小説 
  • 『狸心中 : 事実小説』 1912(明治45/大正元年
  • 『妻の罪 : 家庭小説 
  • 『史蹟甚九郎稲荷』1914(大正3
  • 『父なき子.
  • 『二人の影』1917(大正6
  • 『人格と趣味 : 修養道話 1924(大正13
  • 『成功は修養より : 修養道話』 

 

 すべてを記載しないけど、ざっとこんな具合。

 講談もの、探偵小説、怪奇小説、メロドラマ、伝記もの、ノゥハウ本……、なんでもござれな勢い。

 で、問題なのは上記リストの大正3年刊の『史蹟甚九郎稲荷』という本だ。

 これは大阪の樋口隆文館から3部作で発売された、ちょっとファンタジーがらみな時代劇なのだけど、タイトルが示す通り、岡山は上之町に明治時代に出来た甚九郎稲荷の由緒話なんだ。

 講談という枠組みでいえば、この本は声を出して読み上げるのがベストだ。

 

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 明治38年の暮れに亜公園の天満宮と合祀したことでヤヤ大きくなったとはいえ、全国的には無名な小さな神社の物語が、しかし、なんで、大阪の出版社から出たのか?

 なぜに、史跡とアタマにもってきて、それを公然たる歴史のように記したか?

 

 数年前、その謎を半分ほど解いた状態で岡山シティ・ミュージアムにて講演し、この小説と甚九郎稲荷の関係をおしゃべりしたけど、半知半解な解けない謎は謎のままに残って、それが気がかりというか、現在進めてる亜公園に関してのテキスト化にも甚大な影響があって、この部分がゆえにお筆が進まず弱ってたところなのだった。

 なんといっても……、中村兵衛という作家の素性がさっぱり判らないんだ。

『明治大正・文学美術人名辞典』という本が大正15年頃に出ていて、お花の先生までも含み入れてその生年没年など、ドエライ網羅力ある文字通りな辞典なんだけど、なんとその本に中村兵衛の名がないのだ。

「なんでじゃ?!

 訝しむものの、手がかりがなく、途方にくれていたのだった。

 

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 さて、一方のK氏は社史の編纂をやってるから当然に明治の時代にも降りていく。

 S新聞社(何もSと書かずともいいけど)は、明治12年に起業。当時は「山陽新報」といって、けっこう主張が明白な新聞だったから、国やら県に睨まれて、発行停止とか編集者が数週間の禁固刑をくらうとか、なかなかラジカルで元気な新聞社だった。

 で、K氏は当時の数多な関係者の名から、中村兵衛の名を見出して、

「おやっ?」

 となったワケだ。

 S女史が以前にボクのことを書いた記事を思い出し、それでS女史経由で会合となった次第で、これはブラボ~、めっちゃ有り難い。

 

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        『史跡甚九郎稲荷』。見事な挿絵は折り畳まれて入ってる。

  

 わずか150年ほど前の人物が、それも30冊前後の本を出している、それなりに名が通っていたであろう作家の生年没年が判らないという、この一事には、なにやら人の生涯の虚しさみたいなものも感じないワケでもないにしろ、ともあれ、会合できてホント良かったんで、ここで紹介する次第。

 

 結論を先に云うと、やはり……、判らない部分が幾重とあるのだ。

 K氏の知る範囲、ボクの知る範囲、両方を付け合わせ、かき混ぜてみても、輪郭のない未知が横たわっているのだった。

 でも、けれど、新たな知見を多数得ることが出来て、これはビック、立ち上が~れビッグエックス~な驚きもまた味わえるのだった。

 

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      挿絵の一部。なんとエンボス加工されておりキツネの毛並みが手にとれる。

 

 K氏に教わるところによれば、中村兵衛は一時期、この岡山の新聞社に勤め、小説を担当している。

 それも「山陽新報」ではなく、同時期の岡山にあったライバル紙「中国民報」という新聞社でだ。こちらもラジカルな新聞で明治33年には主筆田岡嶺雲が官吏侮辱罪で投獄されたりもしてる。

(昭和11年に両社は合併。しばらく「合同新聞社」の名で続け、戦後の昭和23年に山陽新聞社に改名)

 小説『史蹟甚九郎稲荷』は講談ものというカタチで「中国民報」に連載された後で大阪の出版社から刊行。3部作というか、3冊に分けて販売された。

 この時点で中村兵衛は在岡山ではないようだが、ボクはかねてより細謹舎(市内表町にあった出版社ケン書店)を創った北村長太郎が、この小説執筆の仕掛人ではないか? 亜公園が閉園した後、地域(上之町・天神山界隈)の集客力アップを担う場所として甚九郎稲荷を大いに活用という、地域興しとその創生のキーを握る人物とみており、それでもって甚九郎稲荷を語ってみようと企てていたから、この新事実の提示は、

「おっ!」

 あらたな1章を編む好材料となった次第なのだった。いわば、お料理のための良い具材が入ってきたみたいな感じ。

 なので今、ちょっと興奮させられている次第。こういう昂ぶりは、いいね。

–––––––––ということで、作家・中村兵衛と甚九郎稲荷の関連話はまた別機会にお伝え申し上げ候ぅなれど、ちょいと前進した喜びをば今回は、おすそわけ。

 

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  会合後、表町でKちゃん・Eっちゃん、かしましシスタ~ズとバッタリ鉢合わせ。

 移動し、禁酒会館でお茶。ぁ〜しまったなぁ、K氏はかつてS紙上で同館のことを書いた人だった……、誘えば良かったなぁとアトで後悔したのをここで公開。

 Kちゃんから面白いカタチのオチャケのおつまみドッサリ頂戴でニッコリのボクちゃんは感謝かんげき柿の種。そ〜、これはオカキやらのセット。この先しばし、我が部屋からは夜毎、カリカリポリポリ、歯ごたえ良さげな音が続くだろう。