雨天となった日、福山の神勝寺に出向く。
1年ほど前、講演で御一緒いただいたN女子大の上田教授より、
「日本の建築家を1人あげるなら、藤森照信でしょう」
魅力を聞かされた。
その藤森作品の寺務所が神勝寺にあるのだった。それで気にはなっていたのだけど、たまさか、Yちゃんが神勝寺に行きたいと申うされたのが冬のさかり。
行きたいベクトルがっちり合致。
あったかくなった今がチャンス。天皇交代に託(かこ)つけた、やや意味不明な大型連休……。その人の波にのまれる前に行っちゃえという次第。
しかし、チョイスした日に雨が降る……。岡山神社音楽祭の雨天中止以来の雨、何でこのタイミングで降るのかしら、く・ち・お・し・や。
広島県福山市へなら、いつもなら車でゴ~だけど、あえてこたびは新幹線。
あっという間だから旅情に遠い。
福山在住のオッ友達に松永駅まで迎えに来てもらい、車を出してもらいと、いわば送迎付きのラクチン・ツアー。
福山駅まで迎えに来てもらってもよかったけど、なんだか電車旅情をも少し味わいたく、それで福山で乗り換え、2駅西の松永駅で下車。
オッ友達がこの駅近くに住まってるというのも理由だけども、ともあれ雨の松永駅、そこから松永湾の巨大な貯木場をちょいと見学後、神勝寺へ。
このお寺は栄西の臨済宗建仁寺派の禅寺というのが基本。だけど広い境内はワンダーランドっぽい。
開山は1965年(昭和40)。ずいぶんに新しい。
その新参がゆえ、供養主体の寺よりもヒトの集える場としての寺のカタチを考えて、努めて間口を広くにしたのだろう。古刹風味と現代アートを並列にし、寺空間をNOW先端に昇華すべく努めてらっしゃる、という意味でのワンダーランドだ。
だからこの場合、テラクウカンじゃなくジクウカンと、ヤヤ気持ちを膨らませぎみにハツオンするが好かろう。
一見、一望しただけで、相当な経費がかかってるんだろうと了解できる。
その支出と収入の行方も気になるけど、そこは問うまい。造船関連の地元企業がスポンサー的な母体ともきくけど、自力でもって維持しているらしき風情の天晴こそが、ここは肝。
川池のある広大な庭。いやはや……、「広」と「大」の2字がピッタリの空間展開。
庭。滝。点在の家屋。複数の見事な茶室。
いささかアッケにとられ、
「あらま~」
「ほほ~」
「へぇ~」
傘さしたまま、感嘆符のみが口からこぼれる。
日本の茶の湯のスタート地点を整地して茶の専門書『喫茶養生記』を書いた栄西の臨済宗だから、茶室があるのは、ま~、こじつけ的じゃ~あるけれど、悪くない。
ここは歴史的ストーリーを味わう場所ではなく、日本のテーストを味わう場と思えばいい。それゆえのワンダーランドと思えばいい。
茶室「一来亭」。利休の一畳台目の想像復元家屋。
ピカピカお天気での見学よりも、雨中の日本家屋の佇まいの方が、「イイじゃ~ん」、こじつけて自分を納得させもしつつ、広い空間に身を置くと、明治の廃仏毀釈を思わずにはいられない。
それまで多くのお寺さんは広大な地所を持って、良くも悪くも権勢をもって光輪を輝かせてた。けど神道国家の道を明治政府が決めてお寺さん大打撃。土地を奪われ境内を狭められたばかりか暴徒によって仏像を壊されもした。
だから、神勝寺の境内を歩いてるとその圧倒的広がりに、明治以前の寺の景観を思わずにいられなかった。郷愁としての明治以前をすこ~し味わった気分がわいた。
寺務所「松堂」
藤森照信が創った寺務所をはじめて直に眼にする。
写真で見たよりはるかに、インパクトが高い。
絶対的に新しくはない。新しくはないけど斬新だ。いささか矛盾する言い方だけど、佇まいの落ち着きに常に新鮮な風があたってる……、という感触があって、その感触がいつまでも消えそうでないという処から斬新という一語が明滅し続ける。
藤森照信作品は、屋根の上に木を植えて、住まいと自然を一体化させるのを特徴とするけど、この神勝寺でもそれが味わえる。
植生したことで、いわば家が呼吸をしているんだ。
銅葺き屋根に赤松を植えてるのは、神勝寺界隈に赤松林が多々あるかららしい。地域の自然形態を住まいに取り入れたというコトらしい。
樹木は育つものだから当然に赤松の根も太く長くなっていくはず……。そこを思うと30年、50年先のこの寺務所がどのように木に覆いつくされるか、あるいは、そうはならずか……、興味深い。
アンコールワットの石の家屋はガジュマルの木が強靭にからんで蚕食にかかって浸透し、放置すれば200年先には人造は自然に駆逐されるであろう様相を見せているけど、その実証実験の先端を藤森作品には見るようで、お・も・し・ろ・い。
ただこの神勝寺の家屋では屋根と樹木を明快に分けての造りのようで、必ずしも一体化してるという次第ではないようだ。
けど……、家屋もまた自然に呑まれゆくものとの想定でこれが創られたとは思いたい。
そうであるなら、ボクがいささか好感ぎみの宇宙的な醒めた眼差し、ユーゴーの小説『レ・ミゼラブル』的なものじゃない”嗚呼無情”な境地を体現の寺務所というコトになるだろう。家屋の風化という現象は衰退を意味するだけじゃ~ないとも、考えたいワケなのだ。
※ ガジュマルは沖縄地方での名で、”カラマル”という意味合いらしい。さすがに赤松ではアンコールワットほどのコトにはならいけど根は浸透してくるはず。上写真は判りにくいでしょうが、寺務所屋根のテッペンに赤松があり、メンテナンス用の階段がしつらえられている。
神勝寺はとにかく面積広大。岡山後楽園よりはるかに広い。高低差もバツグン。
入口そばの寺務所・松堂で、
「境内最奥の荘厳堂まで徒歩15分です~」
と聴いて、ヤヤあきれた。
その境内広庭に飛び石みたいに、川あり伽藍あり茶室ありミュージアムな家屋あり、さらに湯殿ありと……、全体を見て歩くだけで時間が過ぎてく。
荘厳堂の庭
食事もとれる。
ちょうど昼時だ。
坂道途中にある五観堂という処で、水車を眺めつつ、神勝寺うどん、というのを食べる。
3枚組の器「持鉢」と雲水箸が、ここが寺だと否応もなく意識させ、ある種の気分を造ってもくれる。きっとこの場合、お味がヨロシイとかマズッっとかではなく、御食事を頂けることへの感謝気分を昂ぶらせなきゃ~いけないのだろう。
薬味のみでお揚げも天麩羅もついてない1000円を超えるうどんを啜った経験はほとんどないけど、気分は禅だ、禅行だ、ありがたく頂戴をする。
修行僧は食の作法では音をたてずが要めらしいけど、”四十九日”の日はうどんを食べておかわり自由の上に、啜って音をたてさせるのが肝心とのこと。
そこの由来と加減がよく判らないけど、ま~イイや。
それなりにズババッ……、音をたてさせる。
雲水箸がうまく使えず、つい中腰になって1本つかんでる我が良き友。
ご飯も出る。うどんツユでチャチャッと流し込みつつ、お椀を綺麗にしていく。
修行僧の食の光景でお馴染みのタクワンでもって、椀を拭くようにし、残さず平らげる……、そのタクワンを自分土産に買った。
賞味期限の記述がジツにNOW、
「ぁ、こう来るか」
ってな感じ。
飽和したお腹を抱え、さらに境内を歩く。
今年初めに出向いた曹源寺の凛とした深閑を思い出す。
同じ臨済宗の禅寺。
けども、かたや境内の立ち入りは可能なれど閉じて観光化を拒むカタチ、かたや開きに開いてアートを加え風呂も食事も提供で観光化の最前線というカタチ。
この相違もおもしろい。
どちらが正統とか正解とか、どちらが良いというものでもなく、両者はコインの表裏であって、しかもどっちが表でどっちが裏とかいうのでもない。つかの間の探訪者は、ただもう見せられるカタチの中で浮遊すれば、いいだけのこと。
アートパヴィリオン「洸庭」。見事なしつらえ。
宗教のための家屋じゃない。家屋そのものがアートであり、そこで展開するアレコレもまたアートでござい……、の施設。三内丸山遺跡の、あの大きな集会所(?)を彷彿させられもしたが、近場まで足を運ぶと、これが通常な家屋でないコトが即座に判る。
ここでアーチスト・名和晃平の作品を見る。というか体験をする。
2重トビラの厳重な灯火管制。客席数1階部分2階部分あわせて僅か24席ほど。
ミニ懐中電灯を渡され、案内されるままに館内に入り着座。
完全な闇の溶出。
やがておぼろな音とおぼろな光が登場し、眼前いっぱいに水面があるのが判ってくる。床上式のこの建物の中は水で満たされているワケだ。
その水面に光が反映し、あわく踊り、ゆるやかに溶け、カタチのない形としての、水と闇と光が織りなす瞑想的時間に誘われる。
これは例えば、ピンクフロイドの『エコーズ』あたりを聴く感覚に近いとも思うけど、歌詞があるワケはなく、カタチは最初から最後までその輪郭を顕わにせずで、固定イメージは与えられない。イメージを紡ぐのは観客の個々であって、だから一緒に眺めていても、たぶん、個々は違う情感を萌させたに違いない。
なかなか面白い体験だった。
案内してくれた方
筋肉痛になる前のワタシ
荘厳堂のなが〜い階段。晴れていたら緑の向こうに四国が見えるというが、この階段で筋肉痛うまれる。
夕刻。車で送られ、福山駅に。
で、さよなら福山かといえばそうでない。
駅前の「自由軒」にゴ~。
かつて出向いたさいはお休みで残念だったけど、こたびやっと入店。
禁酒のお寺さんのカタキをとると云わんばかりにビールをグッパ~。
3年ほど前、ジャズフェスの良きお仲間たちがここを訪ねたさいには、たまたま『孤独のグルメ』の原作者が取材中で、楽しげな記念写真をもらってチビっと悔しかったりもした。
久住さんとK.O君のツーショット
そのカタキもとるぞと、淡白なもの、脂っぽいもの、炙ったもの、煮たもの、焼いたもの、アレにコレにと注文しては平らげる。
お値段リーズナブル~な青色明朗会計もありがたい。
寺の静かさと、この楽しい喧騒めいた繁華な「自由軒」との対比が、この日一番の収穫。