前回に吾妻ひでおの事を書いて数日後、某所某BAR にてEっちゃんから、
「『失踪日記』、おまいさんに貸した本じゃん」
そう云われたんだった。
「へっ?」
「マジ?」
「うっそ~」
「ぇぇえええっ?!」
困惑4連打。というかコンニャク踏んで滑ったというか、またまたまた……、彼女からの借り物だったんかぁァ~ん。
記憶の自信がひっくり返る自身に直面させられたんだった。
けど、ど~もそうらしい。借りて読んだ末に借りたコタ~忘れ、いつのまにやら自分で勝った本と思うてたらしい。
だから、ノ~ノ~とこの『月のひつじ』に記してたんだけど……。
それで、なにやら、孫悟空を思い出すのだった。
放蕩の末、觔斗雲にのって何万キロも移動して、もうココまではお釈迦さんも追送してこないだろうとニッタリ笑ったら、雲間から釈迦の手がニュッと出てきて鷲掴まれてギョッ。
逃走したと思いきや何ぁ~んのコタァない、釈迦の手の中にいる自身を知らされるという、あの悟空陥落談……。
『阿房列車』の件といい、こたびといい、まるでそれでは読んだ本は皆な、Eっちゃん経由、あたかも彼女のテノヒラの中の出来事みたいではあるまいか。自身に向けて懐疑な情がわく。
ともあれやむなしヤム茶にナンで胃がもたれてしかたなし。
「まいった、まいった」
借りてたとわかった以上、お返しするのがマナ~というもんだわい。ほとぼり冷めて、Eっちゃん老いぼれ歯抜けに腑抜けになった頃合いにリボンをつけて返してあげて、
「え、これって私の本?」
そう云わせてみようと、真剣に思った某日のBAR。
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次講演のフライヤーがあがって来た。
タイトルは『岡山木材史 part.2』。
前回の続きという位置づけで、前回と同じく岡山中央図書館前館長の大塚利昭氏との共演。
また面白い話が出来ると思う。
ぼくは例によって、明治の娯楽施設『亜公園』を話す。
同園は明治25年の3月に開業するが、オープンと同時に押すな押すなの大盛況。
当時、中四国最大かつ独自な施設でもあって、前年に開通したばかりの山陽鐵道(現山陽本線)で姫路方面からも客がワンサカ来た。
山陽鐵道はさらに西へ西へと、『亜公園』が開業した頃は尾道-三原間の工事が進み、鉄路はドンドン延びていた。なので『亜公園』へは福山方面からも人がやって来た。
話題が話題を呼んでの人だかり。岡山市民は愛を込めて、『あほう園』と呼んだりもした。
けども、その開業の年、オープンして4ヶ月め、岡山市は大水害に見舞われた。
台風だよ。それも大型。
県内河川はいずれも増水。
足守川(あしもりがわ)が決壊。足守地区では10数名が溺死。
県内の2大河川たる旭川・吉井川は6mも増水した。
旭川の増水時に水を逃がす仕組みとして江戸時代にでき上がってた百間川も4m増水。これが砂川と合流するあたりで決壊。現在の可知(かち・地名)あたりや幡多地域、東岡山から上道(じょうどう)郡(当時)にかけて一面が浸水し、死者が11名でた。
岡山市内を流れる旭川は、百間川への水迂回で何とかしのいでいたものの、風強まり雨やまずで遂に、亜公園近くの石関町と下出石町の堤防が相次いで決壊。ついで、上手の南方(みなみがた・地名)と北方(きたがた・地名)の3ヶ所が決壊。
一挙に濁流が市内を襲った。
も~、ひっちゃかめっちゃか……。深い場所で1階の軒の上あたり、浅くても床上1mという状況。
市内95戸が流壊。半壊140戸。床上浸水6千余戸。当時の市内は非常に狭く、津高や御野(みの)、牧山あたりは市内に入らないから、この被害数にカウントされてない。
(県下木全域での全壊3188戸・半壊2221戸・死者74名。御野や牧山界隈では25名が亡くなった)
えらいコトになったぞというワケで、亜公園見学どころじゃ~ない。
こたびの講演では、水害が「亜公園」にもたらした影響をば、話す予定。
知ってる人は知ってようが、実はこの大災害時、コトもあろうにあの夏目金之助が岡山市内にいて、これまたエライ目ぇ~に遭ってるんだ。後の漱石先生ですな。
一歩間違えば彼とて存命していなかったホドの危機。そのコトにも、講演では触れる(かもしれない)。
いうまでもなく暗ぁ〜い話をしたいワケじゃない。”木材史”という括りの中、かつて川は重要な”道路”であって、川がもたらした恩恵もタップリ話すことにもなるでしょう。ちなみに『亜公園』を創ったのは木材商。明治の木材商にとって川はチョ〜大事な、いわば血管でもあって……。
期日は12月15日の日曜。午後2時から(開場は1時半)。場所は岡山シティミュージアム4F。
詳報告知は、また後日に。フライヤーは公民館を含めて岡山市内の公共施設などで入手可。