今更にこの大林作品を取り上げるのは周回遅れのカメの鈍足とも思うけど、イブに、超ひさしぶりに観たもんだから、書いておきたくなった。ウサギの俊足でなくていい。
ちなみに……、クリスマス・イブをキリスト生誕の前夜、あるいは前日と思ってるヒトが多いけど、実際は、
”クリスマス当日の夜”
であって、前夜や前日じゃない。
これはユダヤ暦に起因する。
ユダヤ暦では日没でもって日付が変わる。1日は陽が落ちて夜がやってきたさいスタートする。なのでキリストが生まれる”直前最初の夜”を指す単語として”イブ”は位置づけられてるわけだ。
グレゴリオ暦が一般化して、日付変更が夜中の0時になった現在でも欧米人含めキリスト教が主体となってる国々のヒトは、そこをアタマの中で切り替えてらっしゃるようで、
「前夜ですね~」
と、いったら、
「へっ?」
と、笑われる可能性あり。なんせ、一夜の出来事 なので……。
チャールトン・ヘストンがマゾっ気たっぷりで演じた1959年の映画『ベン・ハー』の巻頭で、闇の中、多くの人に見守られつつ、1つの星がベツレヘムの小さな羊小屋(馬屋)を指し示して東方の三賢人を導く印象的かつ絵画的な場面があるけど、それがまさに”イブ”、救世主誕生直前の夜というワケだね。
(グレゴリオ暦では0時で日付変更だけど、ユダヤ暦では既に日付が変わってるワケです)
『ベン・ハー』1959年のスチール
で、三賢人が恐縮しつつ小屋のドアを開けると、マリアとヨゼフがいてマリアの腕に赤子が抱かれてる。ここからクリスマスだ。
だからイブとクリスマスは、休眠なしの連続した出来事なんだ。
かの有名な、『きよしこの夜』は、
き~よ~し~ こ~の~夜~ 星はひ~かり~ す~くい~の御子は~♪
と謳われるけど、”この夜”とは、マリアが出産する直前(イブ時間)をも含んだ祝祭の夜時間なのだった。
『ベン・ハー』1959年のスチール
以上はともあれ、筒井康隆が『時をかける少女』を書いたのは1965年から66年にかけて。東京オリンピックが開催された翌年なんだから、ずいぶん古い。
映画になったのが17年後の1983年。
筒井の原作は読んではなかったし、映画館で観てもいないけど、1年後くらいにTV放映された時にこれに初めて接し、ラストシーンからエンドスクロールのつなぎのさなかの、理科実験室の床に倒れてた原田知世がムクッと起き上がり、こちらに向かって微笑しつつ彼女の歌声が流れるシーン展開に、強い衝撃をおぼえたもんだった。
もとより少女趣味なんぞカケラもないし、この手の青春物語は苦手だったけども、ファイナル・シーンの、こちらに向けてのはにかみ笑顔に、
「えっ?」
奇妙なテーストに困惑しつつ、
「そう来るかよ~ッ!」
魅了されたもんだった。
で、それからもう34年だか35年が経過……。
郷愁とも憂愁ともつかない何だか蒼い心持ちが生じ、しばし悩んだ末に、ま~、自分へのクリスマス・プレゼントにと、大林監督の同作ブルーレイを買ってコッソリ観たのだった。
老いたもんだ……。
それが最初の感想であり感慨だ。むろん、老いたのは自分の感性。幾つかのシーン、例えば岸部一徳と根岸季衣の両先生がネクタイのことで言葉を交わすというようなシーン、夜の尾道市街にほとんど当時は街路灯がなくって、だから夜が暗いという事実とか、原田知世演じる芳山和子がプライベートで履くのがSUBUやクロッグみたいなサンダルでなくってゲタであるとか、本筋とは別の脇の辺りで、喉元が熱くなった。
出資者の角川春樹と監督大林は、原田知世という初々しいミューズのその魅惑にメロメロになって一致団結しての映画作り。これを奇跡と言わずして何ちゅ~んだろう。右も左もなく、ただもう原田知世という希有な存在に大のオトナが夢中になった痕跡がフィルムに定着してる……。
ウィキペディアには、知世ちゃんを引き立てるためにあえて共演の高柳良一(深町君の役)にはセリフを棒読みさせヘタに演技させたとあるし、原田知世をこの1作のみで引退させ、まさに永遠のミューズにしようと目論んでいたともある。
いささか爺ッチャマな今の眼でみれば、ファイナル・シーンの彼女の頬に炭をつけて撮ったのは、角川・大林ご両名の、「この子を自分の手で汚したい」的な、けれど絶対にそれが出来ない悶々な願望をあえてホッペの炭に託したみたいなフロイト的解釈も出来ちゃうのだけども、それはそれ、30数年ぶりに再見、
「ぁぁあ~」
ひたすら感嘆しちゃったのだった。感嘆というより感動だ。今となっては技術的に稚拙に見えてしまう特撮シーンも逆に心地よい。シーンことごとくが、懐かしく、かつ、鮮烈にして味わい深い。
こんなキスするフィギュアって今もあるんかしら?
運動場の弓道部のシーンで矢が飛んでく先に帰校する生徒が多数歩くのは危なくってヤバイじゃんかとも眼に映ったけど、はるか昔のそのシーンを今になって非難するにはもう無効。
眺めつつ、はるかに遠ざかった我が青い春をもシミジミに引き出されるようであって、何だか涙腺大いに緩むのを禁じえないのだった。
なぜって、もうこういう味わいを我が身としては体得できない「若い頃」がこの映画には満ちていて、それが悲しく、切なく、懐かしく、あったかく。
が、この映画の最大の良さは、成長した芳山和子がなが~い廊下を向こうに行くまでを見せることで、青春ファンタジーの甘い円環の中に主人公をとどめなかったことだろう。『モダン・タイムス』と同じ手法ながら、その先には愛もあれば、それに伴う痛苦もまた彼女には去来するであろうとの暗示が示され、それが映画のポイントをいっそう押し上げてる。
なので、本作もまた時を越えて駆ける名作なんだね……。買ってよかったよブルーレィ。
という次第なのだった。
この映画はシーンというか時間軸によって画面サイズが変わるんだね、はじめて知ったわい。
ま~、そんな2019年のメリ~・クリスマス。密やかに買ってたネコ型瓶の白ワインをあけ、小一時間で飲み干して、瓶は新春の花活けにでもしようかと、北叟笑む。
となれば……、『時をかける少女』でその存在が広く知られるようになったラベンダーを一輪が良いね。アッ、でもラベンダーって開花は6月頃じゃね。
ま~、それもヨロシイがにゃ。
待てば海路の日和かな
だよ。
『時をかける少女』のスチール