ジャガイモ掘り出して

 ジャガイモを掘り出した。

 昨年末に掘り起こしてもよかったけど放置。それをこたび。

 わずか1メートル強四方の区画ゆえ、収穫量はしれている。けども、けっこう大きく育ったのもいて、なんだか慶賀。

(慶賀って、こういう時に使ってもいいのだよん。喜んで祝うという意味なんで)

 これっくらいの量は買ってもたいした金額じゃ~ないけれど、ささやかなガーデンで出来ちゃったのが何よりメデタイわけで、毎年やってるけど、まずは複数を茹でてバターでいただこうかな。(久々バターも買ってきた・苦笑)

 ほいで次はカレーだかに使い、次いでステーキ焼いた(安いお肉で)さいの添え物かな。

 小さな行為だけど、ま~、えがいた夢はでかいわね。

 

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  カゴはパッションフルーツを室内にいれるさい伐採した長い枝を乾燥させて造った手製


 今年にはいって何冊か明治中頃の事を書いた古書を買い、拾い読みしてみるに、食堂車というのは山陽鉄道が初めて導入したもの、というのを知った。

 

山陽鉄道明治21年に起業の私鉄。明治34年までに神戸~下関を結んで営業。しかし明治39年に軍部が日露戦争での経験を踏まえ兵員と軍事物資の円滑な輸送を申し立てる。結果、強制買収みたいな形で国家運営となり今の山陽本線になる。山陽鉄道を含め国営化を申し出られた私鉄17社は大反対だったけど、戦争勝利に沸いてる世論も国を味方し、押し切られるようにして私鉄は統合され国有鉄道となった)

 

 調べてる事とは関係ないけども、そういうコトを知ると、途端に興味が脱線するわね~、だって鉄道だぁなんてニコヤカに笑みつつ、西洋料理が饗されると書いてあるから、きっとお肉のそばにはボイルされたジャガイモがあったろうなぁ……、と想像する。

 

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 1700年代の末には最上徳内(この人の素晴らしさはみなもと太郎の『風雲児たち』で堪能できるよ)が北海道に種イモを持ち込んで栽培しはじめ、明治初期には男爵イモが米国から入って直ぐ北海道で国産化されている。この山陽鉄道の食堂車で使われたのは国産オジャガだったろうか? 煮くずれしやすくないか? 

 煮くずれしにくいメークインは大正時代に国産化だから、食堂車で使われたとすれば神戸港に入った輸入品かもしれない。ま~、献立しだいでイモのチョイスも変わったろうけど……。

 

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 メニュー表が今に残っていて、1等・2等・3等とある。おそらくコース料理として等級が判れていたんだろうが、具体な中身は判らない。

 神戸に自由亭ホテルという煉瓦造り3階建てのホテルがあり明治22年開業・のちにミカドホテルに改名。上写真)、ここが食堂車の運営を請け負った。

 西洋人が宿泊するホテルだから、ま~、食事もちゃんとしていたとは思えるけど、食堂車でどういう料理を出してたかといった”中身の資料”って、あんがいとナイもんだ。

 

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 1等・2等・3等の3等がハンバーグ定食みたいなものだった可能性もあるし、また逆に、そうであるなら、ハンバーグ食の日本での起源を調べておかないと、可能性もあるとはホントは云えない。明治38年の文献に「ハンボーグステーキ」という料理名が紹介されてるけど、ひき肉ではないし、一般に普及しているものでもなかったようだし……。

 

 ともあれ食堂車というカタチは明治32年に私鉄・山陽鉄道鐵道と書く方が雰囲気イイけど)で産声をあげた。

 1等車車輌の半分を使い、中央に長いテーブル1つで座席は10席。これに自由亭ホテルから出張のボーイがつくんだからシャレてるし、ゆとりのゴージャス。

 

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           山陽鉄道食堂車の内部。当時の写真。オシャレだね〜。

天井中央の裸電球にも注目されたい。この電球点灯のために車列には蓄電車という小さな貨車もひいてんだよ、当時は。

 

 価格も興味深い。(上のメニュー写真を見られよ)

 明治8年に登場した銀座・木村屋のあんパンは1ヶ1銭。今の価格でいえば200円。

 明治25年に岡山に出来た亜公園・集成閣の入場料は5銭。およそ1000円なワケだ。

 で、食堂車の値段をみるに、

  • 1等 70銭  ⇒ 14000円
  • 2等 50銭    ⇒ 10000円
  • 3等 35銭    ⇒ 7000円
  • パン(バター付)   5銭 ⇒ 1000円
  • キリンビール(大瓶) 25銭 ⇒ 5000円(!)

 と、ずいぶんに高いのが判り、ボクなんかはちょっと利用できない……。

 ま~、当時ビールが高額だったのは判ってる。

明治34年の麦酒税が原因。軍事予算を増加させるためビールに大幅課税でバカ高くなった。このため弱小のメーカーは全て潰れ、資本力ある大手ビール会社のみが生き残った)

 明治34年での通常価格が19銭(3800円)だから、食堂車はそれに上乗せてのお値段というワケだろうけど、それにしても高ぅございますなぁ。

 

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 明治32年7月1日付けの大阪朝日新聞の連載小説『紫水晶』の挿絵は、山陽鉄道食堂車の光景。

 ボーイが両手に持ってるのはパンだけど、各人の前の皿のクチャっとしたモノ何だろう?

 

 でもさらに逆を思えば、上のような金額でも当時ヘッチャラな方々もまた大勢いたということになるから、明治は必ずしも貧しいばっかりの時代ではないことが、これでしれる。(云い方を替えると格差社会が進んだというコト)

 ちなみにこの頃、お米は高くなりつつあって、明治20(1887)年に1升で5銭(1000円)くらいが、明治31(1898)年には15銭(3000円)にと、ずいぶんに値上がりし、大正7(1918)年にゃ33銭(6600円)を突破で米騒動が全国で起きてる。需要に生産が追いつかず、昭和の時代になって、

「貧乏人はムギを食え」

 という発言が大問題(1950年の衆議院予算委員会での池田勇人蔵相発言)になったけど、明治以来ずっと米の安定供給は出来てなかったわけだ。(人口の増加も原因ですが)

 でも一方で、ライスカレー明治35年頃にはしっかり庶民な味として定着しつつあって、5銭とか7銭で食べられた。1000円~1500円くらいな感じね。

 一皿にどれっくらいのご飯とビーフが入ってたか判らないけど、関東じゃポークかな? 

 漱石の『三四郎』にもライスカレーを食べるシーンがあったね。お肉はほとんど入ってなくって、オジャガがゴロゴロだったように思えるけど、我が宅のささやか極まるガーデンを掘じくってジャガイモを取り出しつつ、以上、明治中期にタイムトリップしてみましたワイね。

 

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          これはポーク仕様のカレー。2粒ほど牡蛎をそえてパチリ。

ライスカレーが、カレーライスとひっくり返ったのは昭和44(1969)年頃。ちまたにザ・タイガースショーケンテンプターズグループ・サウンズの音色が満ちてた時期に、誰かがライスとカレーを別皿に入れるというシャレたことをはじめ、これで主従がひっくり返った。というか、それまで同列に一皿におさまってたのが、カレーが主でライスは従という上下関係をあえて見せるという新形態になったわけだ。

 

 余談ついでながら、食堂車登場の頃の山陽鉄道は1等車・1等車・3等車とあって、食堂車が出来ると、その3等の客が1番安いラム子(ラムネのこと)だけ注文して居座って動かないというモンダイが生じたようで、やむなくも直ぐに、

「3等車の人は利用できません」

 という風にクラス分別が起きちゃってる。ボクなんかはたぶんに、

「切符を拝見……」

 チェックされ、その追い出される方に属してるんだろうね~、当時に生きてたなら。それで……、

「よっしゃ~、今にみとれ~、そのうち食堂車借りきって、愛人5人くらいと一緒に乗っかって、フォークとナイフ器用に使ってみせたるんじゃ!」

 なさけない向上心をメラメラ燃やしたかもしれんねッ。

 ま~、えがく夢だけはでかいわな。