左メダマの手術から、早や10日ほど経過。……いや、まだ10日って感じかなっ。
次は4日後の午前中に診察。これで一応は術後診察から開放される。
通院って、面倒で、き・ら・い。
アクリル製水晶体レンズは保険適用のものは2種あって、右眼の時と同様に「遠くがよく見えるレンズ」を装着してもらってる。
なので0.1以下のさっぱりワヤな状態から、今は裸眼で1.0~1.1というところまで回復しちゃってる。
けど大喜びというわけでもない。
逆にそれで、今度は近いものが見えにくい。今までは0.1以下であれど小さい文字の識別はかろうじて出来てたんだけど、それがもはや見えない。
老眼を使用しなくちゃいけない。ま~、すでにしっかり老メガネは使ってるんでベツダン困るワケでもないけど、ちょっとガッカリという感じがしなくもない。
昨年末にKosakaちゃんに天井によじ登ってもらって(土間構造なので)取っ換えた部屋の照明を、ちょいと前さらに光量のでかいのに換え、文字を見る環境として申し分ない”明るさ”は現出してるから、ひどく困るというコトでもないんだけど、「得したような損したような」絶妙な淡い気分ありあり。いっそ、「近くがよく見えるレンズ」を入れてもらった方が良かったかなぁ、とも思ったり。
その場合は、右眼側が遠く用で、左眼側が近く用、ということになるのだろうけど、チョイとアンバランスかも知れないと思って結局、「遠くがよく見えるレンズ」にしちゃったわけだ。
こういうのは装着しなきゃ~感じ感覚がさっぱり判らんので、ま~、悪しくいえば「後の祭り」という次第なのかな?
遠くも近くもバッチリの遠近両用レンズがあると奨められはしたけど、保険適用外、片目46万円っていうの……。
46万って……、ビッグマック1200ケ買えるじゃん。1日1ケで3年以上食べ続けだぞ。
視界と部屋の明るさ。これは大事なポイントだ。
たまさか、明治の「亜公園」がらみでアレコレ調べてるんで、灯りについても掌握しなきゃ~いけない。
赤煉瓦にガス燈が灯った銀座の華麗だけが明治じゃない。
むしろ、行灯から西洋式ランプ、さらにガス燈やらアーク燈に変わり、さらにまた電球と発電による灯火へと、めまぐるしく変わったのが明治だから、その移行時期としての当時の感覚をば、知覚したいと思ってアレコレ調べてる。
通り一遍な表層は直ぐに判るけど、ちょっと深く知ろうとすると、もう霧がかかったみたいになって、何冊か本を渡ってやっと、おぼろな輪郭を掴むというようなテイタラク。
たとえば、これは明治の話じゃないけど、「アラジンの魔法のランプ」ってあるでしょ。
このアラジンのランプは、何を燃してるの?
あんがい即座にわからない。
アラビアン・ナイトというくらいだから、きっとあの油だろう。オイル・マネーでおなじみのあの油だろうと……、思いがちだけど実は違う。
オリーブ油だ。
地中海界隈の風土はオリーブをよく育ませてる。
利用法はいっぱいで、食用になるし、肌に塗る美容剤になるし、燃料にもなった。
ただ、あんまり強くは燃えない。
アラビアン・ランプの細い指し口の中にはちゃんと灯心が入ってて、これがオリーブ油に沁み、細い先端部に火が灯もる。だから、手元を照らす程度の明るさだ。
なので、夜の部屋から部屋へ移動することに使うのが前提、大きなトッテがついてるワケなのだった。
一方でヨーロッパの北部方面じゃオリーブは、採れない。
しゃ~ないんで、牛の脂を燃やし灯りにした。脂(油)にヒモ状の芯を漬け、これに火を灯す。
けど、牛脂だからすごく匂う。
やがて鯨の頭の中にある白い脂(鯨蝋)が冷えると固まるのに気づき、これを固めて圧縮して芯を入れ、ロウソクにした。
アラビアン・ランプに較べずいぶん明るい。
それで捕鯨が盛んになる。
乱獲だ。頭の脂部分だけ採って後は海に捨てた……。
牛脂より匂いはきつくないけど、それでも独特の匂いがあり、カーテンや絨毯や壁紙に匂いが沁みた。
地下に埋まった「燃える水」のことは大昔から知られてるけど、それを燃料として取り出すようになるのは1885年。日本風にいえば嘉永7年。ペリー艦隊再訪で日米和親条約を結ばされた年だよ。
で、明治前期の日本の灯り事情は、江戸時代と同じくロウソクと行灯が全盛だ。
行灯は廉価な魚油がほとんどで、イワシやサンマの脂分だ。
武家やちょっとした料亭なんぞは菜種油を使う。
発生する匂いが随分違う。
魚脂の悪酔いするような匂いと植物性の匂いとじゃ、当然に菜種の方が居心地がいい。でもま~、値段が違うから一般家庭じゃあんまり使えない。
でも、石と漆喰で固めて空気の対流がよろしくない家屋じゃない。僅かな木材に紙をはった襖(ふすま)が主なんで、風はス~ス~、使ってるさいはかなり匂うが、匂いが部屋に沁みて籠らない……、のは利点だったかな。
日本のロウソクはハゼノキやウルシの実を蒸して脂肪分を抽出して造ってた。いわゆる和ろうそく。鯨のそれより蝋が溶ける融点が低い。
明治前期の日本を旅したイザベル・ルーシー・バードの『日本奥地紀行』は、当時のリアルを強烈に伝えてくれる第一級の資料本、その観察力に圧倒される。
あれこれな人の紀行文を読んできたけどイザベル女史の記述はダントツに素晴らしく、いまだこれを越える”旅の記録”はないようにも思える。
このブログみたいにグダグダ長々な記述じゃなく、事の本質が好けるように短く文章を刈り込んでらっしゃる。
その中で、彼女も日本の灯りに言及してる。それがリアルに満ちて、メチャ参考になる。
聖書の教義を身に沁ませ、宗教的布教活動もやってた女史だから、その史観と私感を最上に置いて、時に上から目線も含まれるが、極力公平に眺め、リアルをリアルのままに伝えようと務めているのが、何より素晴らしい。
47歳の彼女の眼に映る旅の同伴者、横浜で雇いいれた伊藤という19歳だか20歳の英語が出来る青年、従僕であり通訳でありの真面目で向上心ありながら、旅の道中では事あるごとに金銭的チョロマカシもやってるその姿、彼女の旅券が持つ”威力”をかさに旅先方々で時に偉そうに振る舞うその姿を、批難としてでなく、第三者の眼差しで見詰めてるのも圧巻。
(イザベラ女史の旅券は英国公使経由で’日本政府が発行のほぼ無制限なスペシャルなもので、当然にこれを発行した以上、日本政府は彼女の旅先での安全と保護を保証する義務を担ってた。予約を入れて旅してるわけでなく、辿り着いた町々村々で彼女と伊藤君は宿をとる。そこでこの旅券が圧倒的な力を発揮する)
伊藤君は旅装束とは別に羽織袴も持参しており、いざという時はそれにサッと着替えて、旅先の地元警官や宿主にちょっとえらそうに接する。
読み進むうち、イザベラ女史よりも、我が同胞たる日本人・伊藤君に猛烈に興味がわいて来たりもする。
要は彼のスガタカタチを描くことで、旅先の日本と伊藤君の中の日本とがぶつかったり融解したりの様相を通して、女史は自身の眼とをあわせ、2つのマナコでもって明治日本のリアルをステレオで描いてるんだから、素晴らしいというか、す・ご・い・んだ。
その彼女が見た当時の日本の灯りは、貧しい家になるほど貧相になっていく。
彼女はそれを鯨油とも魚の油とも書いていないけど、異臭ありの小さな灯火の中、家族がその灯りの下にうずくまるように身を寄せ合い、けれどそんな乏しい明るさの中で、習字して文字上達に励む子供がいるのを見逃さない。亜公園が岡山に登場するわずか14年前の、洋化が浸透していない日本の姿……。
そこに彼女は美しいものを感じてる。子供の墨による筆跡の逞しさを当時のパリ画壇の洋画家と較べ、礼賛したりもする。
で、そこを読んだボクはといえば…… そんな暗いところで勉強してちゃ~、メダマ悪くするんでないかしら、視力落ちまくりだろう……、くだらない別次元リアルをおぼえてるという次第。
生メダマはリニューアルながら、何をどう映してじっくり見るかという点じゃ、まだまだ旧態脱せず。