希有な連休。
買い物程度のお出かけはあるものの、若い夫妻が住まう隣家も、向かいのやや若い夫妻のところも、そのお隣りさんも、みな車庫に車があった。
拭えない不安。窮屈と退屈。でも微かにおぼえる状況の可笑しみ。
アレコレないまぜ。
みながみな自宅にいるもんだから、この機会にと不用なのを片づけたり。家庭内調理が増えて、週2回の燃えるゴミもやたら多い。
さなか、道路にはみ出た紅カナメとキンモクセイを剪定。
路上に脚立をたてて作業するも、あんまり車も通行せずで、楽勝な作業。(大きな袋でゴミ出した)
隣家のK君も、庭先で何ぞゴソゴソやってる。
のどかといえば、のどか。
ニンゲンがニンゲンを取り戻したような情緒気分が、なくもない。
もちろん、この気分は我が宅より数十メートルの狭い範囲のこと。全般ではちょっとした監視社会みたいな腐臭ありで、それがいつ町内レベルにまで浸透してくるか判ったもんじゃ~ない。
剪定後のスッキリ
連休中に赤みを増した庭のイチゴ
スーパーでは小麦粉やらパスタの棚がほぼ空っぽ。
時間があるし子供もいるから自宅でパンやらクッキー焼いてみるかぁ、というアンバイなんだろう。
同時多発でバナナケーキなんぞを焼き焼きで、非日常っぽい日常をうっちゃってるんだろう。
近頃はレトルトに押されて家でカレーを作るというのが減少してるそうだけど、ウィルス騒動で蟄居してるなら、工夫こらしたのをコトコト煮るのもイイもんだ。
てなコト書きつつ、こちら、LEE辛さ10倍をまた密かにいただいたけど……。
ヤマザキのレーズン入り食パンの甘さがLEE の辛さに意外に似合う
カレーについてはこの前にも触れたけど、その萌芽期というか黎明期の実情をまさぐってみると、随分におもしろい。
複数の本と昔の資料で、明治時代のライスカレーのことを学習。
明治は45年間続いたけど、幾つか本をみて考察するに、カレーで区分するとこの時代は3つに分けられる、と思う。
■ 導入期 明治20年頃まで
■ 浸透と改変期 明治20~30年代中頃
■ 土着期 明治30年代末~45年
導入期。印度の香辛料が直に入ってきたんじゃない。
ロンドンのカレーパウダーの製造会社クロース・ブラックウェル(C&B社)の缶入り製品が、日本でのカレーの基点といっていい。
英国は16世紀末から何やかんやと印度方面に圧力をかけて、1858年には印度を完全に植民地化したが、印度という風土が育んだ食材(香辛料)もまた摂取した。
当時の英国の食の光景は、週に一度大きなビーフを焼き、晩餐として盛大に食べ、その残りを翌日から次週までアレコレ味を変えて食べるというのが極く一般的。
イギリス料理がまずい(過去形ですが)というのは、週6日は残り物を食べるというこの習慣に起因した。
そんな風習的食事に、印度の香辛料を英国人の舌にあうよう調整して販売したのがC&B社で、これは大ヒット。
つまらない味付けの夕げに、大きな刺激的味覚あるものとして貢献した。
C&B社製のこのパウダーは仏蘭西にも入って、かの仏蘭西料理もまた、その登場で新たな味覚のドアをあけることになる。
さすが仏蘭西、すぐに、 Riz Au Curry というドライカレーの原型みたいなものを産んでいる。カタカナで表記するとリ・オ・カリーと書くのが妥当か。肉料理に添えるポテトみたいな位置づけ。
riz au curry
日本の場合は、日本にあって日本でない外国人居留地での、外国人による外国人のためのホテルでのC&Bカレーパウダーの使用が、スタートになる。
肉にかけるソースとしての使用だったようだけど、その厨房で下働きした日本人がやがて独立し、自身の西洋料理店を持つなどして居留地以外の場所で、カレーの味をばらまいてく。
「辛味入汁掛飯」
という、おしながきが書かれるようになる。
カリー・オ・リと、リ・オ・カリーがひっくり返っただけだけど、ライスにかけるという風合いがこのひっくり返りで顕わになる。
汁掛飯を「らいすかれえ」と云い出したのは、札幌農学校のクラークだという説もある。
Boys, be ambitious like this old man.
「少年よ大志を抱け、この老人みたいに」と云ったウィリアム.S.クラーク博士。
余談だけど、多くのヒトは、「この老人……」の部分を知らない。老人とはクラーク本人ですけど、なんかそ〜云われちまうと、ちょっとこの先生にカチンとくるような感もなくはない。少年よ大志を抱きなさいだけならカチンはないけど、自分を手本にせよと云われるとねっ。
とはいえ日本のこの時期は、まだ西洋料理の食材がない。
ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、普及していません。
牛肉も、それようの飼育牛は数少ないし、屠畜場も数少ないし、場所も限られる。
牛は割りとたくさんいたけど、農耕で働く大事なものだったから農家は手放さない。
なので流通途上。
明治5年の『西洋料理指南』では、
「葱一茎、生姜半個、蒜(にら)少し許(ばかり)を細やかにし、牛酪大さじを以て煎り、水一合五勺(せき)を加え、鶏、海老、鯛、蛤、赤蛙等を入れてよく煮、カレー粉一匙を入れ煮る。熟したる時、塩を加え、また小麦粉(うどんこ)大匙二つを水にて解きて入れるべし」
とある。
小麦粉に "うどんこ" というルビが可笑しいけど、ネギやタイやハマグリやアカガエルというのは驚き。
が、肉の基本はギュ~ではなく鶏肉だったのが、これで判る。
当時の鶏肉といえば、黒い羽毛で覆われた軍鶏(しゃも)が一般に流通してる。幕末、かの坂本龍馬の最後の食事となったのもシャモ鍋だった。もっとも彼と中岡慎太郎はそれを食べる前にやられてしまうのだけど……。
ともあれ、日本ライスカレーに入る肉の最初は、ギュ~でなくブ~でなく、コケコッコ~なのだった。
それが明治20~30年代では、野菜は栽培地が増え、牛肉はそれ目的の飼育が増えてくる。
牛肉、ジャガイモ、およびニンジンの流通と生産が増し、ライスカレーに用いられるようになる。
馬車しか運送手段がないから遠方に運ぶほど鮮度は落ちる。牛肉は肉質良好という次第ではないにしろ、鶏肉から牛肉へと変じてるのがこの年代。
ライスカレーという固有名詞が定着してくのも、この年代だったろう。
もしも日本人の舌が鶏肉のそれにチョ〜大喜びだったなら、牛肉への変換はなかったに違いなく、今もカレーといえば鶏が主流ということになったかもしれないけど、ありがたや、その味に満足しなかったワケだ。
しかし、明治30年代後半、突然に牛肉の流通が悪くなる。
なぜか?
日露戦争の兵員派兵だ。
兵の食糧の1つとして牛肉の缶詰が大量に作られてくんだ。
缶詰用として屠畜される牛はそれまで1日40頭だった。それが兵隊用のを量産のため1日あたり500頭が必要になった。
だから一般への流通が悪くなった。
日本缶詰協会・80周年記念パンフレットより 缶詰製造の当時の絵
さらに、いざ戦争のフタがあくや、露西亜兵の捕虜がどんどん増えてった。
その数、7万2千人。
国内29都市の寺や神社境内に分散されて作られた収容施設に、それだけの捕虜がいる。
当時の日本は白人捕虜に対する扱いが比較的キチンとし、それなりの食事(自炊だから食材)を提供しようと努めてる。
(日清戦争での中国人捕虜への劣悪に較べて随分な厚遇っぷりゆえ、欧米列強に向けての日本は国際法を遵守した文化国といったアピールが根底にあったとの説がある)
捕虜生活中、本国より家族がカメラを送ってきたりしてる。だから、けっこう写真が多数残ってる
ともあれ彼らのためにも、牛肉が大量に必要になる。
そのため、明治37年に10貫目(38キロ)14円だったのが翌年には26円と、アッという間に倍近くまで値上がり。
1番に困ったのは大流行中の牛鍋屋だったようだが、ここでは触れない。
こういう次第が巷の西洋料理屋のライスカレーに影響をあたえた。
そこで代用品が登場する。豚肉だ。
小菅圭子著『にっぽん洋食物語』によれば、明治30年代までの日本では、豚肉の統計数字がまったくないそうだ。
ということは、それまでは食材として流通していないワケだ。
琉球や鹿児島じゃ~常食されてるけど地域の食材でしかなく、大半の日本人はポークの味を知らなかった。
それが戦争で大きく変化した。
関東方面では今もカレーといえばポークカレーだが、これは、日露戦争ゆえの産物なのだった。
一方で関西は、神戸、近江、松阪などなど牛の産地が拡大して需要をまかない、ポークカレーの浸透を阻止……、やがて後年、その飼育牛はブランド化へと進んでくけど、この時点でもっていわば土着するように、ポークとビーフという二大分布にわかれてった。
という風に解釈してもいいかな。
日清、日露の戦争はもちろん平時でない。有事だ。
捕虜は静物でない。囚われているが食事をとる。そのために彼らの口にあう牛肉を提供しなきゃいけない。
有事というのは鉄砲の撃ち合いで前へ前へと進行するだけでなく、そのはるか背後のライスカレーすらも、プルンプルン揺さぶるのだった。
今回に参考にした本たち。