庭池の水換え

 昨年末からズッと放置の庭池の水を、取っ換え。

 昨年末に金魚どもを室内水槽に移してるから、気づかうことなし。

 水中モーターを沈めて水を抜く。

 魚がいなくとも半年放置で水は汚れてる。

 枯葉が沈んでユルユル腐敗し、さらなる枯葉が幾重と浮いたりで、どんより澱んでる。

 その澱んだ中で睡蓮が葉をつけ、色もつけ始めている。(冬季は葉はないよ)

 

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 作業しつつ、明治の時代を思った。

 いや、あのね、エエカッコで云ってるんでなく、モーターが動いてる間ヒマなので、水深が下ってくのを眺めつつ、空想を浮雲みたいに流してみたのさ……。

 

 明治となって岡山城は廃城。

 新たな街創りがはじまり、張り巡らされていた堀の埋め立てが企画された。

 これがとても大変だった。

 明治8年(1875)にまず外堀の水を抜き、埋めた。

 外堀というのは城郭の1番外周にあるものだけど、岡山城の場合、その内側に武家あり民家ありで、ややこしい。お城と曲輪(くるわ→城下町)を含めての城壁都市というカタチだ。

 現在の新鶴見橋付近から番町方向に延びたこの堀は、番町(江戸時代はやや下級の武士が住んでた)から南方面へ直角に曲がってまっしぐら。京橋の下流あたりまで、3キロも続くでっかいものだった。

 堀を渡るための橋が5つあり、付随して門があった。

 最北の伊勢宮口門、現在の柳川ロータリーに山崎町門、ずっと南下して常磐町門、大雲寺町門、紺屋町門。

 堀を渡って門をくぐるとそこからはお城の領域だゾ~ン、武士もいるから気をつけろヨ~ンという次第だが、西方面からの侵攻を考慮した最大にして最長の外堀だったから、幅広く、水深もかなりのものだったと推察できる。

 

 これを撤去、埋め立てて初めて城の縄張りという呪縛から離れることができる。新たな街作りが出来るワケだ。

 大工事だった。水中モーターもなければ重機もない。すべて概ね手作業。

 水を抜き、両サイドの石垣を壊して埋め、そこに旭川から採取した砂利を埋め、さらにどこかから運んできた土砂で埋め立てた。

 5月に工事ははじまり、9月に完工。

 けっこうな速度。猛速といっていい。

 この4ヶ月に渡たる埋め立てで、現在市内の太い導線たる道路が出来た次第。埋め立てた明治の時代には市内最大幅の道路だから、京橋方面から番町にかけての物流の中央道になった。

 

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 番町交差点からの眺め。堀はほぼこの幅だった……。より正しくは下図の通り(写真上部の青ライン)で、この写真部分の左付近がお堀にあたるが、幅は同じ。グーグル・ストリートビューにて

 

 以後、岡山県岡山市は乏しい予算をやりくりしつつ、城のやぐらやら城門などを破却しつつも、中堀、内堀といった水路を埋め立てていく。

 

 天神山の外周をめぐり、やや細いながら2キロ続く中堀は、明治14年になって埋め立てた。

 旭川と結ばれていた石関を撤去して埋め(石関町という地名は今に残る)て水を断ち、外堀同様な工事を進めた、

 この時点までは、今の天神町のオシャレな写真館・島村写場のすぐそばに北之橋(通称甚九郎橋)があったワケで、橋のたもとにあった祠が移動し、甚九郎稲荷が誕生するきっかけにもなる。

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 内堀(三之曲輪東豪)は明治30年から42年まで、12年も工事が続いた。

 殿さんの居住区を守るべきのお堀だから、面積と深さが頑強で、工事は遅れに遅れた。

 現在のオランダ通りはこの内堀の西側面にあたり、シンフォニーホールの場所はほぼ半分が水中にあった。

 なのでオランダ通りをシンフォニーホールから天満屋方面に向けて歩くさいは、その西側はお堀であって、自分は堤を、水辺のそばを歩いてると想像すると、ちょっとおもしろい。

 我が友がやってる美容室もCoffee&Barのコマンドもこの時代にゃ、水中なのだった。

 堀の全埋め立ては、大正6年の終わり頃になってやっと完了した。財政不足に人力確保など、一気に進められなかった苦労がその長い歳月にシミシミ沁みている。

 

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           オランダ通り。明治まではここは堤で左側は堀だ

 けど今思うのは、岡山池田藩がなくなって、堀が埋め立てられるまでの水のことだな。

 その間は管理出来ていないんだ。

 藩が機能していた時には、藩からお給金をもらった管理者がいて、わずかながらも常に流れもあって、ある種の鮮度が保たれていたはずながら、管理出来なくなるや、堤は雑草が繁り、水はよどみ、部分は腐敗して水面に泡が浮くようなアンバイ。

 だから放置期間が長引くに連れて、異臭漂うような惨憺たるものだったよう、思える。

 侍どもがいなくなった途端、その堀に向けて腐れた生ゴミを捨てたり、立ち小便するようなヤカラもいっぱい出てきたに違いなく、明治期の市内におけるたびたびのコレラ(経口感染で小腸に留まる)赤痢(大腸に留まって血便をおこすから赤痢の発生は、それら破棄された堀の水が原因の1つと、いっていい。

 岡山市に水道が出来るのは明治38年(1905)、かの亜公園が閉園した頃だから、それまでは全部、井戸。

 井戸水と堀の水は地下で結託、よからぬ細菌もまたそこで結ばれていた……。

コレラによる死者と思われる統計数字:明治19年岡山市内で1821人。明治25年は5697人)

 

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 ま~、我が庭池は、お城の堀とは比較にならないスーパー・ミクロな存在じゃ~あるけれど、水が汚れていく現象というのは観察はできる。マクロ視座では岡山城のお堀と大差ない。

 

 47NEWSが紹介していた取り壊される前の江戸城貴重な写真たちを参照するに、江戸城であっても、このような惨状だ。これら(↓)は明治4年から6年にかけて撮られたらしいけど、もうこの時期でこのように荒れてるんだからビックリだ。

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 上2枚は47NEWSのHPの画面コピー。下の写真では水上に大量の浮草というか、ゴミの堆積の上に草が茂ってるような荒れっぷりが判る。石垣の一部も壊れてるのかな?

 

 管理され循環している環境と、そうでない環境……。

 荒廃の速度が速いんだ。ちょっと考えさせられる。

 

 荒廃といえば……、ウィルス騒動のドサクサに、検察官の定年延長を強行採決してでも進めようとするAbeとその仲間どもの降るまい。三権分立を冒して民主主義を荒廃させてしまうムチャ。

 原田眞人監督は『検察側の罪人』で法を逸脱して正義を遂行しようとするエリート検察官をキムタクに演じさせたけど、それとは比較にならない根本的な逸脱。コロナ・ウィルスにAbe・ウィルス。心底おぞましい。

 

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 さてと、池の水換え完了。

 金魚はまだ……、室内に滞在させておこう。

 どういう次第か庭池周辺に、バラが生えている。

 植えたワケでなく、勝手にあちこちで芽を出す。

 こういうのは風が運んでくるのではなく、鳥が運んでくる確率が高い。バラをくわえて来たのではなく、その糞だ。

 フ~ン……。

 良き肥やしと共に土に落ちたそれは直ぐに芽吹いてくる。

 トゲが苦手ゆえ、敬遠、雑草扱い……、”野生のバラ”は引っこ抜く。

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 しかし、バラめはあんがい根が太く長い。地表に出た緑とほぼ同じ長さで根を拡げる。

 手では容易に引っこ抜けない。

 スコップで土掘り返す。

 昔に流行った、「マ・ベビベビ・バラバラ~♪」なんちゅう歌のフレーズを口にしつつ。