展示中の模型に不具合ありとの連絡で、補修のためシティミュージアムへ。
ウィルス騒動で客足はまだまだ戻っていない。人影とってもまばら。ならば都合良し、大きなショーケースの側面ドアを開け、展示室でそのまま作業。
しかし、一部分は修復より作り直しの方が良いな、と判断。新たにパーツを作って後日またミュージアムで作業ということに。
そのあと、ちょい打ち合わせ。
平常復帰後、だからま〜、来年かしら……、新たな企画話を少々。
○○-■■-○○ 耳なし芳一のはなし ○○-■■-○○
ちょっと間違って記憶してた……。
そういうコトって誰にもあろうけど、間違いに気づいて、
「あれまっ」
と驚くのは、戸がフイにあいて風が入ってくるような新鮮があって、ときに、なかなか気持ちいい。
amazon primeで1965年の『怪談』が観られるようになってたから、時間みつくろって、このオムニバス大作をば視聴。
当時の日本映画としては超大作。出演者が豪奢なうえにほぼ全シーンがセット。東宝撮影所じゃサイズが足りないということで、どこだっけかデッカい格納庫を借りて撮ったらしい。
当然にその効果や甚大、背景のビジュアルが圧巻。1980年の黒沢映画『影武者』や1990年の『夢』のホリゾントの使い方と効果はこの小林正樹監督作品に近似たものがあって興味深いけど……、ともあれ世界各国で賞を撮ったものの、日本国内じゃ不入りで大赤字、小林のプロダクションはそれで倒産しちゃうという痛いめにあってる作品。
芳一役の中村嘉葎雄は当時27歳。いうまでもなく一度も眼をあけない。琵琶との一体感が素晴らしく名演!
それをば久々に観て、「耳無芳一の話」で、なにやら間違いに気づかされた。子供の頃よりず~~っと、芳一は見習いの坊さんと思い込んでたんだ。
ところが映画じゃ袈裟つけてない。寺での居場所も僧侶とは違う……。
さて?
という次第で原作たるラフカディオ・ハーンの『怪談』を書棚からひっぱり出し、「耳なし芳一のはなし」をば、これまた久々じっくり読んでみるに、
「あら、びっくり」
琵琶の名手ゆえ、寺の住職が、いわば、彼をかこい、衣食住をあたえる換わりに、琵琶を弾かせ語らせて、”愉しんで”いたんだねっ。
ちょいと男色っぽい空気がなくもないけど、ま~、ハーンはそんなこたぁ書いてない。映画もそんな風には描いちゃいない。
と、いう次第で何10年も思い込んでた「芳一は若いお坊さん」はブッ飛んだ。
でだよ……、それで長~いこと疑問だったある一点も氷解したわけなのだ。
それが何かと申しますれば、原作にもあるし、映画もそうなのだけど、耳を盗られちゃった芳一の顛末だ。
芳一の傷は、まもなく良医の手によって本復した。ふしぎな危難のうわさは、おちこちに広まりつたえられ、やがて芳一の名は、一時に世に高くなった。多くの貴人たちが芳一の琵琶をききに、はるばる赤間が関まで足をはこんでくる。おびただしい黄白が贈られて、芳一はそのために、たちまちのうちに裕福になった。
黄白(おうびゃく)は金と銀を指す。転じて金銭のことだから……、お坊さんが裕福になってめでたしメデタシというのは、どうかねぇ。俗っぽいじゃん。そう不審に思ってたわけだわさ。
映画もそうで、耳を失った芳一のいる阿弥陀寺に、噂をきいて、ぞくぞくと貴人が詰め寄せ、贈り物を並べた上で芳一に琵琶の演奏をさせる。
映画のスチール:今度は源氏側だろうね。むろん生きた人間の。
仲代達矢のナレーションも、
「やがてこの寺には多額な金や贈り物が、御礼に方々から届けられて、耳なし芳一は大変な金持ちになった」
で、終わる。
しかし、芳一はあくまで坊さんではなく琵琶演奏家としてのミュージシャンであるなら、多額のお金を得ようが構いはしない。当然の報酬でしょう。
という次第で、以上2点ばかりの謎が氷解、誤解も解けてメデタシめでたしなのだった。
ぁあ~、もちろん、解けない謎も残ってる。
平家の霊たちは、6日間夜ごと秘密裏に通いつめて演奏してくれるなら充分な礼物を下げ渡すと芳一に約束してる。
映画では安徳天皇そのものも登場して芳一の演奏を聴いてもいる。
この霊魂たちは、はたして悪霊か?
なるるほど耳を引っぺがしたのは残忍なれども、途中で阿弥陀寺が芳一の振るまいに気づき、6日間の約束が反故されたわけで、これは霊たちにはまったく納得できないでしょう。
ひょっとしたら、6日め終了でホントにたっぷりな御礼をしようとしていたのじゃなかろうか……、と同情ぎみに思ったりもする。
そも、耳の持ち帰りとて、これは芳一を迎えに来た下級武士の個人的判断。そうでもしなければお待ちかねの貴人たちに言い訳が出来ないとの個人判断。原作も映画も彼がその旨をはっきりとセリフで告げている。
芳一が焦燥しきっていると寺側は見るけど、その焦燥は演奏に集中しきったゆえの満足のそれではなかったか?
事実、ハーンは霊たちを前にしての演奏ぶりを、
ひときわ新しい気負いのこころがぽつねんと湧きおこってきて、さらにいっそうよく弾じ、よく語った。
と、記す。
芳一は高い集中で演奏し、昂揚し、燃え尽きるようなアンバイの名演を残す。当然に疲労もする。
一方の霊たちはその見事な奏でに泣きに泣いて共鳴し、芳一にエールをおくる……。
ミュージシャンとオーディエンスの眩むような交流。
はたして彼らは、悪しきな怨霊だったか?
物語の巻頭で、赤間の関の船幽霊が語られるが、はたしてその悪霊と芳一を取り囲んだ霊たちは、一緒のものだったか?
そこの分別をハーンは、実は描いていない。
あえてなのか? あえてだろう。
そのことがこの作品に奥行きをもたせてもいようが、ガチでマジな話だとして思えば、やはり平家の霊たちは芳一を取り殺そうとしたワケでなく、やはり何がしか、海の産物なり宝物をば芳一に与えるつもりだったと……、思いたい。
ラフカディオ・ハーンの罠はなかなか巧妙。ぼくは見事はまってるわけなのだ。
数年前、チャ~ミ~な仲間達と赤間神宮を訪ねたけど、神宮の左横手で今は居住まいを小さくしている阿弥陀寺跡(明治の廃仏毀釈で寺は廃され広大な地所は神社に変わったのだよ)に佇んだ時には、不思議なほどに異界の向こうを意識させられた。
あそこには14の供養塔(七盛塚とも)があるそうだけど、木々の梢の陰にうずくまって全部は見えない。
その全部見えない所が、奇妙な味わいとしていつまでも残ってる。
味わいといえば、神宮近くで食べた海鮮丼は不思議なほど、まずかった。ま~、正しく云えば自分好みのしつらえじゃ~なかったというだけで、「メチャ旨いやぁ!」というヒトもきっと3万人くらいはいるだろう。
平知盛(たいらのとものり)入水をテーマにした謡曲「碇潜(いかりかつぎ)」を想起させる赤間神宮参道口の錨。神宮はここが基点。入水した幼い天皇や平家の一門はここからあがり、本殿前に設えられた大きな池で禊払いする。映画『怪談』での、復帰した芳一が身分高き女性らの前で演奏してる(上に掲載のスチール)のは、その禊の池がモチーフだろう……。