岡山空襲からまもなく75年

 ミュージアム展示のために作ったものの、使わなかった模型……

 そういうのも、ある。

 何だか模型が気の毒だけど、しかたない。

 1例としてあげるこの模型なんぞは、彩色がはたして正しいのかどうか、確証がもてず、結局、お蔵入りとした。

 

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 戦時中の岡山電気軌道の車輌の1つ。100型といって、1940年代の岡山市街を駆けてたやつだ。

 で、戦争となって雲行き怪しく、岡山もいつ空襲に遭うか判らない。

 それで被害を抑えるため、目立たぬよう車体を暗っぽい色に塗ったらしいのだ。

 その色がどんなものだったかが、判らない。当時を示す写真があるわけでなく、ましてカラー写真なんぞ望めない。憶測でペイントするしかなかった。

 けども基より、この100型という車輌はさほど明るい色が施されたものじゃなかった。

 ハナっから黒っぽい色か濃い茶色なボディだったというのが実像らしく、じゃ~、それをどう塗り替えたか……、確証をもてない。強いていえば、はたして塗り替えるような作業があったかも、今となってはおぼろなのだった。

 そんな次第あって、空襲後の焼け跡でいち早く復旧運転を始めた頃の、かなりやつれた姿……、という状況を空想しての工作となったわけだけど、確定的な証拠のない色ゆえ、展示品として使えなかった。

 

 車内に女性が乗っていてスカートを着けている。

 戦中はモンペ一色だったというに、戦争終結と同時に全国津々浦々でスカートやらカラフルな着物姿が雨後の竹の子みたいにドヒャ~と出てきたのは、敗戦直後の多数の写真を見ればよく判る。

 (ウィルス騒動の規制緩和と同時に町に人が繰り出したのと同じ心理だろう)

 押さえ殺していた諸々な感情を、”抑圧からの開放”としてこのスカートに要約し、ミュージアムで仔細を眺めて頂けたら、カーキ色の国民服を脱いで白いシャツの男性とかも車内にいるのが判るようには作ったのだけど、ま~ま~仕方ない、お蔵入り。

 

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 ただ、この工作でもって、当時の岡山電気軌道の心情は大なり小なり判るような気もした。

 車輌が標的になることは既に承知していたから、いざというさい、どう回避しようかとアレコレ検討されたことは理解できる。

 大本営からの勇ましいニュースと日々の現実は一致せず、けども戦局不利でしょうとも云えない狭隘な空気の中、不安の焦燥を浮かせるまま上空を見上げるような日々であったに、違いない。

 

 だけど大きな俯瞰で眺めると、米軍の空襲は場当たりじゃない。こちらの杞憂を大きく上廻る周到な準備と計画にのっとっている。

 昭和20年6月29日午前2時40分を過ぎた頃からの2時間にわたった空襲にいたる前、5月13日の白昼、米軍は岡山市上空に偵察機を飛ばし、町の全体を写真に収めている。

 どこに何があるかをキチリ掌握して飛んで来ているわけだ。

 その写真を現在は見ることが出来るけど、空の上からだと路面電車をどう塗装しようが、クッキリそれと判るほどに鮮明に写されていて、隠しようがない。

 

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     偵察飛行で撮られた岡山市街。米国国立公文書館蔵にキャプションをいれてます

 

 さほど広くもない岡山市街を焼き払うのに用いられた爆撃機141機。

 途中で故障して引き返したのが3機あって、最終的には138機が岡山に飛来、爆弾を落とした。

 この潤沢な物量作戦を前にしては、車両の塗装なんかは意味もなかったわけだ。

 ちなみにB-29は空調完備な快適仕様、乗員10名で個々人役割分担されているから1人でも欠けてる場合は飛行させないという規定があったそうで、その1機1機にどでかい焼夷弾148発を積んでいる。

 なので岡山上空には1380人の米国の若者がいて、彼らが148×138、2万428ケ(落下中に分離して9万5700発)もの爆弾を降らせたことになる。ほぼ無抵抗と判って高度をどんどん下げてきて、機銃照射もあったとの目撃談もある。

 

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 幸いかな、市街区のほぼ外れに位置して山裾の東山(ひがしやま・地名)の本社と車庫は焼けずに残った。車両被害はその近場に路駐させた3輛にとどまった。でも電力供給の要めである大供(だいく・地名)の変電所が焼け、路線もズタズタになった。

 歪んだり穴のあいた鉄路はそれなりに修復出来るけど、変電所の整流器が大問題。

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 これには水銀が必要(水銀整流器-水銀を陰極とし、黒鉛の円柱を陽極として封じ込み、水銀アーク放電を利用して交流を直流に変換する装置)で、岡山電気軌道では職員が山陽本線の切符を何日も並んで入手、さらに数日、来るあてのない大阪方面行きの列車を待った。

 で、何度か乗り継ぎながら、喰うや喰わずで、かろうじて京都にまで出向き、京都にある水銀販売の業者をたずねて、わけてもらった……、そうである。

 そのあたりの努力が実って空爆から70余日、9月9日には岡山駅~東山本社を結んだ路線を復旧、さらに1020日には番町線を復旧させている。

 

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       大供変電所は後に移動、2005年までは京橋の近くにあった。上写真がそれ。

 

 遠い昔日をさぐるに模型はそれなりに役立つ。全方位から眺めることが出来るのが何よりポイント。あちゃこちゃから眺めつつ、昔に思いを馳せられ、疑似ながらちょっとだけ当時の生活の一部に同化できる。

 

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            昭和11年頃に撮影された岡山電気軌道100型106号車

 空襲での惨劇は今も語られ続けるし、語られ続けなきゃいけない性質を濃くおびているけど、凄惨で酷い悲劇のみが語られがちなのは、ちょっとよろしくない気がする。

 おそらく一番に欠けてるのは、B-29という当時の最新ハイテクニカル・マシンへの理解(褒めるわけでなく)と、それを産んで運営させた”敵国”への理解、空襲時の岡山上空にいた若い米国人らの心情やらと、それでもなお、70日ほどで路面電車を復旧させたヒト達の尽力のでかさ。さらには先に書いた通り、戦争終了と同時に復活のスカートなどなど……、の境界を越えた水平3次元な見方だろう。

 被害者VS加害者の対立する図式でもなく、悲惨体験の神話化でもない。

 直後の被災体験の激痛を語ると共に、そこいらも語り継がれなきゃ~、75年前を均等に俯瞰したとは云いがたい。

 

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            米軍が日本上空からばらまいた爆撃予告のビラ

ただ1枚の写真にハンコのように地名を記しただけだけど、意思表示の明快さがデザインとして秀逸で恐ろしい……。

 

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 上は敗戦して直ぐに岡山に入って来た兵士達(米軍歩兵第24師団の5000人。半年後に英国連邦軍の兵士に交代・昭和22年8月まで進駐)のために米国陸軍が配布した岡山市内マップの一部上記偵察機の写真部分と同じ場所

 この素早い調査と精緻には驚く……。

 占領下の地方小都市だから、進駐してからマップ作くっちゃえば~イイやぁ、でなく、事前に英語マップをこさえちゃってるところに、ただもう時刻通りに列車の発着を行うというのとは別次元の精妙がうかがえて、愕然とさせられ、あわせて、なぜに愕然とするのかの根っこ部分を探ってみたくなる。

 

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 B-29という飛行機は、ターボ・エンジン(高高度飛行で空気が薄くなっても強制的にエンジンに空気を送り付ける)の導入やら、与圧されて窓が開かない構造やら、操縦の分業化やら、60Kgに近い重さの真空管式演算増幅器(アナログコンピュータ - 動く物体に対しての照準を自動化)を5台搭載やら、個々の機体にレーダーがあるやら、桁違いの戦闘マシンだった。

 

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 対するこちらはB-29の飛来を”聞く”ために、九十式大聴音機なる奇っ怪な装置を持ち出した。晴天で空気が安定していれば10Km先の音を感知したという。けど、聞こえた時にはもうB-29はすぐそばにまでやって来ているわけで……。上は昭和天皇が装備を見学している写真。

 

 これら写真を比べ眺めるに、芭蕉の句が思いおこされる。

 小松(石川県)の多太(ただ)神社を訪れた芭蕉は、平家の武将だった斎藤実盛さねもり・源氏だったけど平家に仕え、頼朝側の、かつては友であった木曽義仲に討たれる)の兜に出会い、『おくのほそ道』にしたためる。

 むざんやな 甲のしたの きりぎりす

 


岡山空襲から70年       2015年のTV番組