ちょいと前、毎日新聞だかの書評というか本紹介みたいなコーナーで、A・C・クラークの『宇宙のランデヴー』が取り上げられていて、ずいぶんに、褒めている。
「あれ? そうだっけ?」
訝しんだ。
かなり昔に、1/3ほど読み進めたもののオモチロクなかったんで、途中でやめ、そのまま書棚に放り込んでたのが、『宇宙のランデヴー』だ。(1973年に刊行されてる)
「そんなに、オモチロかったの?」
なので、本棚を探してみた。
あんのじょう、出てこない。誰ぞに貸したおぼえはないし、どこかにあるハズなんだけど、わっからね~。文庫本は失踪の名人かもだ。
先の書評をみるに、5年ほど前に新訳が出てるそうなので……、しゃ~ない。
amazonでひっそり買い、ベッドに転んで、今度は全部読んでしまうのだった。
ほいでその結果を云うなら、
「やっぱり、オモチロクないじゃ~ん」
なのだった。
あっ、というほどもない。
お~っ、ということもない。
ううっ、唸るところもない。
刊行時、ネビュラ賞だのヒューゴー賞だの、幾つもの賞をとったらしき作品だけど、
「なんで、賞をとれたの?」
あらためて訝しむのだった。
23世紀に近い時代の話なのに、登場人物が、20世紀の映画を観る趣味であったりする。
なんぞ大きな行動をするさい、似通う映画シーンを思いおこしてそのキャラクターは自身を鼓舞したりする。
もちろん、クラーク御大は、「古い映画の……」とことわってはいるけれど、この物語での人類は金星以外の惑星に既に分散して住居し、地球内での国歌という枠はとっくになくって惑星連合というカタチで語られ、それぞれの惑星の環境に応じた”性格”づけまでされた、今とは隔絶な世界だ。
なので、たとえ”古いもの”ということわりがあれど、キャラクターの趣味としては違和がある。太陽系の惑星ことごとくを制覇した科学力がある、そんなはるか時代にあっては、たぶんに映画とて大進化していて、もはやスクリーンで観るとかいった単純なものじゃないだろう。
なのに、個々のキャラクターは20世紀(本書が書かれた時代)の空気をまとってる。
その世界観と個人感の乖離っぷりが……、面白くない要因だ。
けどま~、全長50Kmを越える超大型の外宇宙からの正体不明宇宙船と、それを探査しようと努力する人との、大きな差という一点は、おもしろい。
先方は徹底して人のふるまいを無視する。
要は隔絶すぎてるワケだ。
文明の衝突だと思ってる人類と、文明以前の、蚊にたかられた程度の遭遇でしかない何者(物かも)かとの、離れすぎた感触は、おもしろかった。
でも結局それゆえに、見聞録としてなら有効かもだけど、小説としての醍醐味が薄い。
やはりクラークは、『前哨』と『幼年期の終わり』、とりわけ後者がダントツに屹立して素晴らしかったなぁ、残念だなぁ、と再認識をさせられるのだった。
新たに買ってしまった新訳本の解説で、モーガン・フリーマンが同書の映画化権を取って、企画を温めている事をしった。
とはいえ、新訳本出版は5年前だから、難航しているんだろうなぁ。
もし、映画になったら、それはそれとして……、観たいもんだ。
いっそ、中国の映画会社と組んでみるのも有効かも。
トランプ政権下で近頃は中国とは不仲が進行してるけど、中国映画人のイマジネーションは捨て難い。
中国映画人は、中国共産党一色の風圧下で、近代や現在とかは描けない不自由ながら、そこを逆手に、古代の武闘やらに夢幻的要素を加味させての狭い領域で奮闘中。
それゆえ、半端でない想像力を働かせ、かなり見事な映像化に成功してる例も多々だから、ビジュアルありきな映画としては……、面白いのが創れそうな気がしないではないけど、地球人じゃなく、国歌・中国をフロントに出してチョ、みたいなコトになっちまう可能性も濃ゆいけどね。