ダイコンの季節になった。
密かに悦んでる。
ひどくダイコンが好きなワケでもないけど、嫌いであろうはずはない。
なんちゅ~ても、鍋なのだ。
派手さはないもののダイコンは脇役の重鎮。鍋全体を支える役どころといってイイ。
だからスーパーの店頭で白いダイコンが積まれてるのを見ると、何やら安堵するような感がなくもないのだ。
大黒柱がズラ~っとうち揃ってるようで、どこか奈良の大仏殿のどっしりした立柱を眺めるみたいに小気味よく、スーパーそのものまでが、
「しっかりしてんじゃ~ん」
みたいな錯覚で沁み沁みしちゃうのだった。
しかし一方、お江戸の時代からヘタな役者を「大根役者」と例えるね。
ダイコンには迷惑な例えじゃなかろうか。
ニンジン役者でもなく、サトイモ役者でもなく、なぜにダイコンなのか?
ヘタッピ~な役者を下ろすのと「ダイコンおろし」の掛け合わせ、ダイコンの白さゆえの「シロウト」との掛け合わせ、あるいは、上手い役者で芝居が「あたった」その反対として食品としての保存性が良いゆえの「あたらない=ダイコン」という説やらやら……、諸説あるようだけど、 ま~、そんなこたぁどうでもいい。
お江戸の時代の高度なシャレ感覚がもたらした比喩なんだから、今の劣化した我々にゃ~想像の底まで行き着けない。
シャレの深度はあきらかに江戸時代が今に勝ってる。
身分制の社会の中での抑圧をシャレで対抗する勇気と英智も濃くあって、言葉の巧みレベルが違う。と云うより、言葉を紡ぐ覚悟の程が違う。
「で~こ~て~て~て~」
は、岡山弁だ。
我がオンナ友達のEっちゃんなんぞが発音すると、実に良かあんばいで、台所の情景がまざまざに想像出来もする。
むろんこの場合、彼女はヒトにダイコン炊いておいてくれ、と依頼しているワケざんすが、彼女は台所から出てって、居間に寝っころがって本をめくり、ケケケッと笑ってる。
ときおり背中が痒いのだろう、畳に背を押しつけ左右上下に動かしたりしてる。でも猫女は読書をやめない……。そういう想像が容易。
「で~こ~おろいて~て~」
も、岡山弁の変種だ。
「で~こ~おれ〜て~て~」
と、立派な大人がいう。
ボクなんざ~子供の頃によく、マザ~に命令され、おろし金でダイコンをすらされたもんだ。
子供の舌は酸っぱいものは苦手なはずだけど、ポン酢で味わうお鍋の、この擦ったダイコンが酸味緩和の立役者というコトは了解してたし、焼きサンマのフレンドであることも承知之助だった。
焼いたサンマほど孤高な存在はない。キャベツもハクサイもその孤高に寄り添えない。
けど一点、ダイコンだけは、「スリ寄れる」。
両者チョビッとだけお醤油シャワーを浴びせりゃ、しっかり親和しちゃって睦まじい。
そんな次第で、夏場に見ないダイコンがスーパーに並んでると、何だか嬉しいのだった。
黒澤明の『用心棒』には、東野英治郞扮する親父経営の煮売り屋が出てきて、主演の三船演じる桑畑三十郎が、囲炉裏鍋をのぞき込み、イモの煮えたのだかを箸に指して頬張るシーンがあるけど、イモと一緒にダイコンも、その鍋には入っているハズ……、とボクは思って久しい。
それがイモであるならサトイモだ。この時代にシャガイモはない。
三船の表情には、「美味い~」という色は出てないけど、ホクホクと口を動かすその動作には、三十郎が馴染みきった日常的味覚たる煮やした鍋の滋味がうまく表現されているようで、このシーンこそが日本映画界における最高の鍋シーンだとボクはやはり思って、これまた久しい。
ひどく美味くはないから顔に表情として出ないけど、親しんだ熱々な味を口にはこぶ安堵という点で、このシーンはまことに”うまい映像”だ。
願わくばダイコンであって欲しいが、映像でみる限り、イモっぽい。
『用心棒』は、冬になりきらないがもはや寒い、秋の終わりの物語と思えるが、煮売り屋内のその食の光景が季節の空気をよくよく醸してくれていて、
「ぁぁ、この映画じゃまもなく本格の冬なんだろなぁ」
「いよいよ鍋がうまくなるだろなぁ」
そういう感想もまた、ダイコンと共にぷっくりと浮くのだった。
ちなみに三四郎はいつも一人鍋の『孤独のグルメ』状態だけど、ま~、群れない、その一人っぷりがイイのだね。
遠回しに想えば、鍋の中のダイコンやらイモが彼の心おきないフレンズだ。それだけで三四郎には、充分に賑やかなんだろう。