18日の日曜、過日の講演に基づいた記事を山陽新聞朝刊が載っけてくれた。
カラーページに出来なかったと編集委員のI氏は詫びるけど、とんでもねっ、掲載こそが有り難い。なんせ40万部に近い発行数。しかも多くの方が一番にゆったり新聞を読む日曜版だ。実に有り難かった。
新聞紙面。送付してくれたsunaちゃんに感謝
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かねてより調べている明治時代のホテル事情……。
何を知りたいかといえば、当時の料理だ。
それであれこれ関連本をば見繕い、ページめくってる。
幕末頃から明治32年に至るまで日本には「外国人居留地」があって、そこは日本であって日本ではない 治外法権 の場。
今は、現存のそれら西洋館が「明治ロマン」っぽく扱われて久しいけど、当時はそうじゃない。そこで日本人が働くとか恩恵もあれど、独立国家でありながら自国の法律が適用できない場所。ある種の物品に関税をかけられるだけで、ほぼ無償で貸し出した広大な場所は外国そのもの。西洋人による消防団もあれば警察もある。
居留地に出入りする若い日本女性を娼婦と勘違いした日本の警察が逮捕し、けども実は商館に務める女性で、これに商館の雇用者が激怒し、日本側がとっちめられるという事件なんぞも起きる。
この事件は日本警察(神戸署)の勇み足だけども、ともあれ国の中に別国があるという状況はよろしくない。不平等な条約を結んでしまったコトに後悔しきりの場所でもあった。
ま~、それはそれとして置いといて……、居留地には、西洋人経営の西洋人のためのホテルが多々、営まれている。
ホテルにはレストランが必ず、ある。
それはホテルの顔でもあって、格を位置づける最も重要な設備だった。
基本はフランス料理。
当然、コックは西洋人。
そのフランス料理を食材乏しい日本で、どのようにフランス料理として提供していたかという一件を、亜公園がらみで調べている。
写真は、明治15年頃に撮影の海岸通りの神戸オリエンタルホテル。
明治3年にプロシア(ドイツ)のG・V・デル・フェリエスが建造。ビリヤードにとどまらず何とボーリング場もある豪奢なホテルだった。横浜グランドホテルで初代料理長を務めたルイ・ベギューがこれを買収し、彼が同じ神戸で運営したオテル・ド・コロニーと合併して神戸オリエンタルホテルという名になる。
明治40年頃の神戸オリエンタルホテル。新館が建って規模拡大。
ラドヤード・キップリング(ノーベル文学賞の作家・『ジャングル・ブック』など執筆)は来日のたびにこのホテルに滞在、ベギューの料理を「キッチンの魔術師」と随筆で絶賛している。
ベギューは明治20年前後、アルヌー(F Arnoux - アイノスともいわれた?)というフランスで評判だったコックを呼び寄せて料理長にし、日本人コックの指導にあたらせたという。
その指導が神戸の西洋食文化の大きな礎となったと、『司厨士技監』(1979)は記している。
このアルヌーだかアイノス氏が岡山に来たと思われ、それで諸々、調べてる。
上之町の 加喜屋 という和菓子屋に西洋菓子の造り方を説くべく、西洋人が来岡したらしきはほぼ確か。まだ鉄道がないから、神戸港から三蟠港へやって来たはず。
加喜屋 は江戸時代の備前岡山藩池田家の 御用菓子司(おんかしつかさ)という老舗中の老舗。
御後園(後楽園)で殿様出席のもと、数多催された茶会やら踊りの会(城内勤務の女中達の総踊りみたい演芸会)などいっさい、加喜屋の御菓子が使われた。
明治になって、「御用」としてのステータスは失ったけど、老舗は老舗。当主・林藤吉は甚九郎稲荷(初期)の建立者の1人となり、やがて亜公園とも関わりあう人物。後に岡山市会議員になる。
そのアルヌー(アイノス)かもしれない西洋人から講習を受けた菓子職人の1人は、マシュマロの製法を教わって衝撃を受ける。こんなフワフワ見たこともない。
で、閃くところあり……、さらにがんばって独自研究、マシュマロと和菓子の融合に成功。加喜屋から独立して下山松壽堂(つるの玉子本舗)を開業する。
同社のHPより転載
明治の日本では、ヨーロッパでは通常の野菜、タマネギ・ニンジン・トマト・キャベツ・ジャガイモ・ニンニクなどなど、入手が容易でない。やむなく代用をあてるか缶詰めを輸送して調理するということで、しのぐしかない。
彼らコックが一番に困ったのは、鮮度のいい肉の入手だ。
わけても牛の肉。
それを食べる習慣がなく、まして農家にとってはとても大きな労働力である牛を、人が喰うために手放すというような事は「非常識極まりない罰当たり」な事だったから、難儀にナンギした。
けどもだ……、フランス料理というのはバリエーションの幅がでっかいのだ。
古くより、ジビエがある。
Gibierと書く。フランス語だ。
(地元の美味を得るという略語と思ってるヒトがあるけど違う~)
要は野生の鳥獣、その料理。
牛肉の入手は大変だったけど、日本にも多々の野鳥がいる。
岡山から一番に近い外国人居留地は神戸。神戸居留地のホテルでは、鴨やらウズラやらキジを使ったようだけど、コック達が大いに喜んだのが ヤマシギ だ。
ヨーロッパのと同じのが日本にいる。
鳥ペディアより転載
ヤマシギ料理は当時も今も、フランスでは高級なものとして最上位に位置する。
プロスペル・モンタニエが1938年(昭和13)に刊行し、今もって驚くべき密な情報量の『ラルース料理百科事典』で、Bêcasse(ベカス。ヤマシギの仏名)を引けば、鳥の仔細な特徴から調理法やウンチクが7ページにも渡って記載がある。
Bêcasse â l’armagnac ベガス・ア・ラルマニャック やましぎのアルマニャック風味
Bêcasse au calvados ベガス・オ・カルヴァドス カルヴァドス・ブランデー風味
Bêcasse en casserole ou cocotte ベガス・アン・キャスロール・ウ・ココット キャスロール煮
Bêcasse au chambertin ベガス・オ・シャンベルタン やましぎのシャンベルタン・ワイン煮込み
…………
あるはあるは、調理法は全33種。人気のほどがうかがえる。
専門店も当時は幾つもあり、パリのル・ベルチェ通りのカフェ・リッシュなどは予約必需の有名店だったようだ。
そのヤマシギの肉料理を東洋の端っこの島国のホテルで食べられる、というのは有り難い。当時の旅人(西洋人ね)にとってはスノッブ感うずくヨダレものの料理なのだった。
そも、当時の彼らは観光に来るわけじゃない。物を売りに来たり生糸の仕入れに来て、次いでに浮世絵やら仏教美術品を安値で大量に買い取って母国で高額で売っ払うという商人が大半。何も味噌汁やらハモの淡麗を味わいに来たんじゃない。滞在中も母国同様に、極上な味覚を堪能したいワケで、
「郷に入っては郷に従う」
なんて~の、しない。
日本の場合、ヤマシギはその名の通りやや奥深い森や林に生息し、昼は寝て夜に動く。関西方面では京都や丹波篠山界隈で捕れる。渡ってくるのがほとんどだけど定住しちゃってるのも、いる。鳩くらいのサイズ。
とはいっても、安定した供給が望めるわけもない。
数量にもばらつきがある。ゆえにジビエなわけで、その料理も当然に高額となる。 (京都界隈では個体数が減少しているので、平成20年より捕獲禁止)
Oimari「ガストロノミー料理の美味しい記録」より転載
ヤマシギ料理の特徴は、肉だけじゃなく内臓まで使うこと。獲った後に数週、寝かせておくと内蔵はその内容物と共に濃厚な風味になる。肉は赤身で独特な香りと旨味を有する(私、食べたことないけど本にはそうある)。
西洋人のホテルのレストランで食事出来る日本人は政府や県の高官程度でとても少なかったろうが、内臓込みの調理ゆえ、おそらく当時の日本人には馴染めなかったろうし、今もポピュラーとは言いがたい。
ま~、そんなことやらをチョイチョイ調べ、明治岡山の亜公園とその周辺の食の光景を探索しているわけだ。
和菓子の加喜屋とヤマシギ料理は直接関係ないけど、大きな円では括れる。
亜公園という大型複合娯楽施設があった頃、どれくらい西洋の影響が浸透していたか……、ま~、そんな所をば、そういうエンがらみで調べてる。