盆栽展

「谷本玉山-盆栽展」を見る。谷本氏作品の鑑賞は3回目。

 会場の雰囲気も良しヨシ良しのヨシコさん。

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 盆栽は我が宅には、ない。

 自分で“創作”しようとは思わない。

 手入れが大変だ。放っておくという事が出来ない。

 が、そんなんだから逆に、苦労を苦労と見せず育てた枝っぷりやら佇まいをば、見物したい。

 人の痕跡を消しつつ、人が大きく関与しているカタチの妙味が醍醐味、かつ、おもしろい。

 

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                   腰がすわった松柏盆栽

 活花が時間の静止を見るものなら、盆栽は樹木時間と創作者時間を感じて”愉しむ”ものだろう。

 そこはチョット模型に似ている。

 くわえて、盆栽には流派がない。育成にやや細かいルールがあるらしきだけど、師弟も組織もないのがいい。

 平鉢1つの小世界を人に見せようと決意した途端にそれは作品に昇華し、優劣の判断いっさいは見た者に委ねる。その潔さも、いい。

 谷本氏は鉢も自作。捏ねて焼きあげ、それに土を盛って植樹。小宇宙にかけるエネルギーが半端でない。

 

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              いわゆる実物(みもの)

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             こたび一番に気にいった葉物 色合い絶妙

 

 以前にも書いたよう思うけど、盆栽に接するたび『ブレードランナー』が念頭に浮く。

 主人公デッカードの部屋には大きな盆栽が置かれている。

 ほぼ日当たりしない暗い室内ゆえ現実なら環境はよろしくないけども、映画の中のそれは存分に活きて目立ち、デッカードの置かれた状況を暗示する小道具の1つじゃ~あった。

 酸性雨ふりしきり過度に汚染されたその世界では生物はほぼ死滅し、生物は疑似のレプリカに置き換わっているという設定の元、デッカードの部屋にあるそれははたして本物なのか、あるいは模造レプリカなのか、そういう面も含めて、うまい小道具の使い方だなあ、と初見以来ずっと印象が継続している。

 盆栽はただの背景じゃ~なく、このホンモノとニセモノがからみあう物語が駆けてく線路のいわば枕木の1つと思うてみるも良し。

 

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 本物を憧憬していながら既に本物のない世界に生きているデッカードの、その鬱屈の物証の1つとして、それは偽物であろう事が暗に示されている。例えそれが“期限付きで成長”するモノであろうと。

 その人造物を愛でるしか出来ない世界の中で生きる苦悶が、デッカードの鬱屈の起源なのだろう。

 いささか無機的存在だったレプリカントのレーチェルに暴力的に「性-SEX」を吹き込もうとした行為は、その鬱屈ゆえの暴発だ。

 人形同然のヒューマノイド・レプリカに「性的衝動」をあたえる事で、彼そのものがそこで“創作者”になっているわけだ。

 で、同時に、いみじくもその強いられた、

「Say,Kiss Me……」

 に続く行為で「生-LIFE」を萌芽させたレーチェルに対して彼は、濃い愛情を抱くようになる。彼は彼で強いた結果、偽物ではないラブに目覚めてしまうわけだ。

 Befor-After じゃないけど、このシーンを端境に、映画はコペルニクス的大転換をおこす。

ブレードランナー』は、未来SFの形にのっかったラブ・ストーリー。根っこは、F・ヴェーデキントの古典戯曲「春のめざめ」に通底した作品といってもいい。

 

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 昨今の風潮でとらえれば、この端境シーンの、セクシャルハラスメントかつドメスティックバイオレンスな描写は難しいかもだし、映画公開当時ハリソン・フォードはその描写を含め、演じた役に嫌悪したようだけど、傑出の映画である事は揺るがない。背景の盆栽の存在を含めて。

 おそらくこの映画の小道具担当者は、盆栽がナマの樹木を使いつつも徹底した人造物である事に着目し、ストーリーに沿う背景物としてチョイスしたのだろう。

 良い選択だった。

 

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                 谷本玉山作 葉物と実物の膳仕立て