もしも、原寸サイズのポスターがあれば、買ってもよいか……、と思う。山形の米沢市上杉博物館蔵にある『洛中洛外図』。
ありきたりなアンディ・ウォーホルのポスターなんぞより、はるかにイイと思う。
とはいえ屏風絵だから、六曲(5つに折れる)で一双(ペアという意味ね)。高さはおよそ1m60㎝、2つ合わせ置くと幅が8mほどだから、そんなスペースの持ち合わせはない。
でもま~、通常は丸めておいて、見たい時のみ部分を広げちゃうというようなコトは出来そうだ。
美術館でガラスケース越しにかしこまって眺めるより、自室で原寸ポスターを広げる方がラクチン、見つつビール飲んだってイイぞ。屏風絵の内容にグッと近寄れるワケだ。
右から左へと眺めていくのが正しい鑑賞法というか順番になっている
見所は、室町時代の京都での一般ピープルの姿が描かれていることだろう。それも半端でない数。
当時を想像できる大きな手がかり。歴史ウンタラとかじゃなく、姿カタチが覗えて興味が尽きなく、だから余計、美術館でのしゃちほこばった鑑賞じゃ~ダメなような気がする。
上杉家に伝わる『洛中洛外図』の右隻 国宝 米沢市上杉博物館蔵
屋根瓦がある建物は公家や武家の屋敷と寺社のみ。商家(見世棚)の屋根はいずれも板張りで石を重しにしてる。
部屋数は2つか3つで畳はなくって板張り。店舗と住居をかねている。
3つの場合、真ん中が土間で両側が板敷きの店舗になっている。
礎石の上に家を組んでるわけでなく、あくまで掘っ立て。上の図は、武具(主に皮製品か)を扱っているらしき店。地面に直に柱を建てて礎石がない。なので家は傷みの速度が速かったはずだ。暖簾の下にしゃがんで女房らしいのが魚(たぶん川魚)をみている。
天皇家がこさえ、さらに武家の足利家が将軍として君臨して天皇家や公家と拮抗している場所が洛中なんだから、商いをやる人はあくまで地子(地代)を払っての仮住まい。いつ戦禍となるやら、何ぞで追い出されるやら判らないゆえ、屋根に瓦とか畳敷きなんて贅沢はありえない。
1975年から82年にかけてロングランとなったアニメーション『一休さん』はこの時代の話じゃあるけれど時代考証がハチャで今みると、赤面するほどにメチャ。
(記事はコチラ)
ま〜、そこが逆にツッコミどころ満載なんで逆説に“おもしろい”けど、ともあれ『洛中洛外図』の京都の商家……、安普請といえばそれまでながら、個々、商うモノによって店に個性があり、その集積として“町”が形作られているのは、おもしろい。
何の店だろう? と想像をめぐらせていけばアッという間に時間が経つ。
上図は上杉版『洛中洛外図』。1つ屋根に3軒が入居し、中央は餅屋。
そのアップ。右3人は物乞い。アタマにウラジロをつけマスク。
ウラジロはお正月に今も使うね、お飾りの1つとして。
マスクはウィルス予防じゃ~ない。「覆顔(おおいかんばせ)」といい、自分の立場をへりくだり、対人との「結界」として使い、たいがいが和紙または麻苧で造ったもの。
わたしはあなたに危害・害悪をもたらす者じゃ〜ございません、という意思表示的なニュアンス。
複数でもって洛中を練り歩いて金銭やら餅を得たようだが、ウラジロを帽子みたいに頭にのせたこの物乞いスタイルは寺社とか身分制度とかが関係してくる。ながくなるので詳細は触れないが、もらった金や餅の一部は彼らが「属している」寺や神社に奉納されてもいたようだ。
上。左の一間の店で隠居らしいのが2人、茶か茶がゆを愉しんでる。手前の黒い着物は炭売りで、その後ろは薪売り。右が判らん……。女性らが興味を抱いてるが2人の男の持っているものは何じゃろか? 箱の上に人形らしい姿があるからひょっとすると、箱を軽くトントン叩いて人形に相撲をとらせたりする……、大道芸の一種かもとも思ったりするが、真相不明。
上。表立っては依り紐を扱ってるようだが明らかに質屋。着物だか布地を質に預けようとしてる人達。秤で何の目方をはかってるんだろ?
こういう部分は原寸の絵でないとよく判らない……。
室町時代の京都の店で一番に多いのは意外にも質屋だ。貸上(かしあげ)といった。
高利貸しを兼ねたこれが物流の原動力に近い存在として機能する。中国から山ほど流入した銅銭(宋銭)が貨幣として定着しつつあって、物々交換より利便が高いから、木綿の一切れでもあればそれを担保に銭に換えられた。
当然に木綿は質流れとなる。それを求める人も数多ある。木綿の一切れを買って巾着袋に仕立てて、今度はそれを売ることもできる……。(木綿はまだ貴重品。浸透しつつあるものの、綿の栽培が難しかった)
貸上屋にはそういった諸々が何でも運び込まれ、そのために土倉(どそう)という倉ができる。すでに鎌倉時代末期には洛中(京都)に300を越える土倉があったというし、それは担保流れの物品を販売する店をかねていたろう。
上は質流れの品を商っているらしき一間の店。当時は女性が店のオーナーというのも多かったらしい。(参考:佐々木銀彌著『室町幕府』小学館)
次いで多いのが酒屋。北野神社に残る応永22年の『酒屋名簿』には342所が記録され、醸造の技術と酒壺があれば、造り酒屋兼一杯飲み屋を誰でも開業できたというからオチャケ天国めいている。数10m置きに酒屋があったといってイイ。
この頃は……、酒が必需なのだ。公家や武家ではほぼ毎日ように何かのパーティをやる。休肝日なんてナイ。
そうすると呑み過ぎて失敗もする。酒席で嘔吐もする。
今の世ではそんなコトをやっちまえば大恥で大迷惑のヒンシュクでもあるけど、どうも室町の時代はそうでない。
公卿の大橋兼信や伏見宮貞成親王(後花園天皇の実父)が残した日記によれば、酒席の嘔吐は、
当座会(とうざのえ)
といい、座を大いに盛り上げてくれたというコトになるらしく、中には宴の室礼(しつらい-もてなすための調度品)のために他家から借りていた屏風に嘔吐して喝采された者もあったり、嘔吐した者は罰ゲームみたいに次の酒宴の主催を悦んで担うというような……、今とはえらく違うのだ。(参考:桜井英治著『室町人の精神』講談社)
よって下戸の人にはかなり冗談きつい世が室町時代ということにもなるんでね~の。
酒壺
ちなみに、第4代将軍足利義持の日々を記した『満済准后日記』の応永23年12月27日付けの項に、
「義持公、御二日酔気」
とあり、これが文献として残るもっと古い2日酔いの記録だ。
ひょっとすると語源そのものかもしれないけど、ともあれ、年末忘年会だかで、
「あっちゃ〜、おもちれ〜」
と大騒ぎ、将軍が痛飲しちまったコトは明白だ。
洛中に洛外、その明快な領域は今もはっきり判らないらしいが、室町時代の日本は800万人前後が全人口で、京都という狭い一地域には10万人程度がいたという説がある。
その仮説では奈良に8千人、摂津国(天王寺)に3万5千人、和泉(堺)で3万人、備後(尾道)で5千人、などという規模だから、洛中洛外はかなりの人口率ということになり、都市というにふさわしいボリュームとなる。
当時のこの岡山界隈からノコノコと初めて京都に登れば、家屋の数やら往来の賑わいに、
「でぇれ~町じゃなぁ」
面食らったには違いないのだ。
これも質屋流れの品の店か? 暖簾がシャレてる。この場合、左右で1軒ね。女性従業員が2人という次第だから娘と母親かしら? 奥で店主が若い武家くんに反物を売ろうとしている。あるいは若い武家友達2人が、反物を吟味している……、のかもしれない。なんとなく後者のような気がする。呉服屋という専門店は政治が安定して物流規模が拡大する江戸時代からだ。
『洛中洛外図』は16世紀のアタマの頃、フィレンツェでダ・ヴィンチが飛行装置を考察し、スペインではやがて日本に来るフランシスコ・ザビエルがおぎゃ~と生まれた1506年前後に描かれはじめているようだ。
幾つもある。
狩野永徳が描いたのを信長が謙信に贈ったのやら、江戸時代での作品などなどおよそ200点近くが現存し、司馬遼太郎はその内の1つを所有していたらしいが、個人蔵として夜ごと自在に眺めて想像を膨らませていたかと思うと、なかなか羨ましい。
ま~、それほどに『洛中洛外図』は情報密度が高い絵で、数千人が描き込まれているというから仔細を眺めていればアッという間に時間が経つだろう。
なので実寸のポスターが身近にあればと思うわけだ。
信長から自慢っぽく贈られたそれを眼にした上杉謙信にしても、
「わっ、すんげぇ~な」
日本最大の都市の規模と賑わいに眼をはったに違いなく、屏風の前にアグラをかいてジッとうずくまったんじゃ~ないかしら。部類の酒好きでもあったから、片手に杯を持ち、チビチビやりつつシゲシゲ眼を喰い入らせたと思うと、謙信の疼くようなミヤコ羨望気分の体温が2〜3度あがってくような感がしないでもない。
田舎にいればいるほど、『洛中洛外図』は夢みるような羨望をかきたてるわけでもあって、パリ発エッフェル塔の絵はがきが全国に拡散してパリへの憧れを大きくしたように、「夢の京都旅行」の疑似体験装置として絵は機能したに違いない。
ともあれ、いまもって、眺めているとあれこれ発見がありそうで、お・も・し・ろ・そ。
デジタル画像で今は見られます……、なんて~云うけどね、置くと8mの幅を要するようなものの物的存在というのは、例え100インチのスクリーンであっても100インチという制約の中の話、ちょっとペケだよね。インターネット上のデジタル画像も原寸そのもののピクセル数に満たず、拡大しちゃうとネボけてしまうんだから役立たない。
やっぱりポスターだな……。原寸でじっくりトコトン眺めたいねぇ。