雪印のこれ。なが~く「ロクピー」と思い、そうよんでた。
けど正しくは、「ロッピー」だそうな。よ〜く見ると、丸いパッケージの側面にも小さな文字で、そう印刷されている。
あらま~。
しかも、『6P』は6つの断片としての「ピース」と思い込んでたけど、6分割の「ポーション」だという。
そうなのかぁ、知らんかったなモ~。
でも、いいや。
いまさら改める気、なし。「ロクピー」と呼び続けても味に不具合なし。
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過日また、山陽新聞社の取材。
『表町ものがたり 岡山学ふるさと再発見』という連載が朝刊ではじまり、その3回目のための取材。
3回目は、新年早々に掲載予定だそうで……、尋ねられるままに明治時代のことをおしゃべりし、記者さんへの予備知識用にと知ってる範疇でさらに口を動かす。
むろん、知らないことはしゃべれない。当然にハナシを創作してもいけない。
埋もれつつある史実のみをピックアップ。
明治は、江戸時代に比べて情報伝達も速く広範になり、感染症がどこかで出たとなれば、かなりの速度でニュースが伝わるようになっている。それゆえ逆に、怯えも深まった。
赤痢やコレラやスペイン風邪が生活圏の傍らにうずくまり、ニンゲン社会をひっくり返そうと虎視眈々……、今よりはるかに危なかっしい時代でもあった。
とはいえ、くじけちゃいられませんわいねぇ。
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亜公園があった頃、現在のオランダ通りはストリートじゃなくって、お城の堀に面した土手だった。
この内堀を「映像」としてイメージするのは、かなり難しい。
現在の城下交差点付近はすべて水没。エクセルホテルも水の中。シンフォニーホールも半分水没で、強いていえば「水の都」っぽいビジュアルになる。
なんせ、この内堀部分は城郭最大の規模、シンフォニー・ホールが丸ごと2つ入ってなおスペース有りという面積なんだから、想像が容易でない。
もちろん当時、桃太郎通りという大きな道もない。
そんな巨大なお堀のすぐそばに、亜公園はあったわけだ。
なので亜公園南端(現在のオリエント美術館との境界ふきん)から眺めりゃ、旭川と直結しただだっ広い水面が眼前に拡がっていて、そこにサギやら水鳥やらがピョ~ピョ~と飛んできたりするのが否応もなく見えるんだった。
明治よりはるか昔の宇喜多家がここに城を置いた頃からのもの、城の守りとしてのお堀なんだから、でかく、広く、深い。
きっと、大きく育った亀やら鯉やら鰻やらが潜んでいたろう。
立地とその流れを思うに、ここは汽水域にあたるので、ひょっとするとハゼやボラ(今でも後楽園付近にいたりする)、カレイやゲタもいたかもしれない。
むろん、その向こうには城の石垣が幾重と連なって、幾何学っぽい面構成を見せている。水中の石垣にはモクズガニ(モズクガ二が通用しているけどコレまちがい)がたくさん生息していたろう。
埋め立ては、亜公園が営業しているさなか、明治30年から42年にかけてだ。
なんと12年。
ずいぶん年数がかかってるのは、当時の岡山県の財政事情にもよろうけど、あまりの広大に土木工事が難航したというのが実情だったろう。
重機はない。ひたすらの手作業。土砂を入れても入れても、一向に埋まらない。そも、敵の侵略を拒む装置としての堀なんだから人間が立って歩けるような浅いもんじゃ~ない。溺れる深さと幅がなきゃ、意味もない。
作業従事者は、来る日も来る日も砂やら土を放り込んでは辟易した気分を募らせ、
「今日の作業終わったら、とりあえず、菅梅楼でイッパイやっか」
憂さ晴らしに亜公園の料亭「菅梅楼」にしけ込み、芸妓を呼んで、唄わせ踊らせ、まだ物足りなくって、
「やってらんね~♪ ほ~れほれ♫」
てめ~達で即興の唄を作っちゃ~、吠たえるように赤ら顔の口から声を絞り出していたかも……、しれないのだ。
これはもちろん想像だ。確証はない。
亜公園南端にあった料亭「菅梅楼」の想像復元模型。3階の眺望室みたいな部屋からは水をたたえた内堀がよく見えたはず……。
以上のようなアンバイを経過して、今の城下(しろした)あたりの景観が出来ている。
12年にわたる埋め立てで地域のカタチは激変した。
かつて土手であった箇所は道になり、埋め立てられた場所は分譲され、やがて商店ミッシリ集合な所へと変じて大転換。
はるか後年になってオランダ通りというストリートになる。
楠本イネさんにとっては忌まわしい記憶の場所ゆえ、ほぼゼッタイ喜ばないはずだけど……、彼女が没したのは明治36年、埋め立てはまだ途上で、亜公園は営業中でもあった(翌37年に閉園)。
上之町を含む表町筋の大店は、明治となって商売の基盤を失っている。販売先の池田家と城勤めの武家というのがいなくなったんだからアガッタリ。
(武家はその対面を維持するために、盆暮れの贈り物、仲間内の祝儀、上司への配慮、部下への心遣い……、常に出費が収入を上回っているのが実情で表町筋の呉服屋や反物屋などなどへの未払いも多々あったようだ)
やむなくも看板をおろし、地所を売って出てったり、家屋を小さく間仕切って、貸し出したりもした。
そこへ新たな商売をはじめようと意気込む若者たちが入居してきて、表町筋も一変していく。
御用達っぽい澄まし顔の商いは失せ、創意工夫ある若い人による若い町にと変わっていく。例えば笠岡方面からやって来た北村長太郎がそうだ。
彼は細謹舎という本屋兼出版社を起業し、亜公園事業にも出版というカタチで参加していく。
(上之町、中之町、下之町、栄町など8町を総括りにした『表八ケ町』という名は、明治36年の亜公園での「誓文払いクジ引き会」で登場する)
細謹舎が亜公園内で販売した本。これを持って集成閣に登れば景観のほとんどを説明してくれる……、いわば観光ガイドのさきがけ本。国会図書館蔵
その転換時を生きてた方々(亜公園経営の片山儀太郎を含め)の、眼に映った情景、そのさいの気分……、なんぞをあらためて味わい知りたい、追体験したいと思ってるんだけど、さ~、さ~、そのあたりの我が気分を若い記者嬢にどこまで伝えられたかは、かなり……、心もとない。
ともあれ年明けて、山陽新聞に、亜公園がらみの記事が載ってたら、
「あ、これだな」
ニッカリ笑って眼をお通しください。