年が明けて早や数日。
昨日。
朝日新聞が、面白いニュースを報じてた。
光秀本人は信長攻めに参加しておらず、8㎞ほど後方の鳥羽(京都市南部)でもって戦果朗報を待っていたという新たな事実が古文書から出てきた……、という次第だ。
ま~、かねてよりその説はあったものの、光秀のそばにいる上級家臣の家から、事をしたためた文章が出てきたというんだから、これ、かなり信憑性が高い。
なんで今ごろ、この時期に、そんなニュースがニュースとして記事になったのか、そこは不可思議な感がなくもないけど、ともあれ本当なら、幾つかの定説がひっくり変えるんで、ま~ま~、そこが、
「へ~!」
ってな感慨を沸き上がらせる。
ボクちゃんが主張してきた事がこれでアジャパ~になっちまったぁ、とうな垂れるセンセもいるこっちゃろうし、逆に発奮、そんなこたぁ~ない、その文献こそ怪しいや、と吠え出すセンセもいるかもしれない。
ともあれ、盛大に声を発するがいい。異論反論もまた建築的で面白いし、そうでなくっちゃ~いけねっ。
信長が早朝に不意打ちされてやられちゃった事実は事実としてあるワケで、そこへのロードマップがガラリと変わるかもしれずで……、興味深い。兵の数が数万でなく、2千人余りというのも頷ける。
閻魔大王的な巨大な存在を討ち取るべく、しかし光秀本人は本能寺に行かずというのは、どんな心境だったろう?
不安の焦燥に駆られるまま、「朗報はまだか? それともアカンかったかっ」ヤキモキして落ち着かなかったであろう事は想像できるし、明智家トップとしてオタオタしちゃ~いけねぇ、じっと堪えて不動の姿勢で座してなきゃ~とガンバッたかも知れないし、54歳の彼の悶々はどんなもんだったかしら。
「撃ちてし止まん」
と念じているものの、心の隅っこじゃ~、
「バカなこと、しちまったかなぁ」
ブレの振幅が次第に大きくなっていってたかもしれないし。
ま~ま~、ともあれ、決断と実行と確実についてくる結果。
自身の軍団を派遣させている頃合い、光秀の顔はずっと青ざめていたには違いない。
で、「やりましたぁ!」の第一報が届いたさいには、心脈数があがって、顔がにわかに上気もしたろう。
が、次の瞬間には、事象の巨大さに、また蒼白っぽい顔に戻ってこわばってたんじゃなかろうか。その先に敗北があるとは思ってはいないものの、逆に血が冷えるような感じではなかったか?
なかなか刺激的な朝日新聞のニュースではありんした、な。
たぶん、今年もまた、アレコレと刺激に満ちたニュースが届くんだろうねっ。
で、ビックリしたり怒ったり湿ったり……、の1年が続くんだろねぇ。
まっ、そんなもんだ。
我ら川面を流れ翻弄されるばっかりの、木の葉って~感じかいね。
けど、流されつつもアチャラコチャラの景観はしっかり眺めまっせぇ、ってね。