コロナ・ウィルスに侵食されて以来、ナンギを背負わされている飲食店を思わないではいられない。ブレ続ける政策に翻弄されっぱなしが、不憫。
誰もが今なにかにしがみつきたい気分だけど、政治指導者にスガれないのが、痛々しい。
昨年1月15〜16日が日本での感染スタートだから、今、ちょうど1年。気兼ねなく、躊躇もなく飲食店で食べて笑顔しちゃえる日は、さて、いつになるやら……。
年明けて、ペーパーモデルを1つ、創った。
明治の亜公園での「食の光景」を再現してもヨロシイなと思い起こし、それで作図し、工作したというワケだ。
創ったのは、担ぎ屋台。
蕎麦の店。
うどんも商うというカタチも有りだけど、あえて、蕎麦専門で、お酒も扱うと想定。
亜公園内に屋台が出ていた、という資料は今のところ、ない。
しかしながら、あってもおかしくないと常々考えてた。
お江戸の時代から続く「屋台文化」は明治になっていっそう闊達になっている。
神社などでの祭事同様、賑わい創成の1つとして、期間限定、初春や秋なんぞには、屋台はほぼ確実に登場したろうと思っている。
亜公園・集成閣の手前にての想像復元……
なので創作だ。史実に基づかない。
が、それもいいのだ。
創作するコトで史実に近寄れるとも思ってるから。
ただ、この場合とて、「歴史を都合よく解釈しちゃう」のは、いけない。
軸足は常に実証主義におく。
この屋台は「雷神蕎麦」という。
菅原道真を念頭に置いた亜公園の、そのテーマ・パークとしての方向性を他店同様に、名に適用した。
亜公園内小庭園付近で営業という形態だ。
当時の屋台は、資料があるようでアンガイと少ないが、概ねでカタチは決まってる。
基礎のフォーマットは江戸時代に固まり、そのバリエーションが多岐に渡って明治に続いてる。
イザベラ・バードが明治11年に描いた屋台。1軒の店がニンゲンの肩に乗って移動するんだからイザベラさんはビックラこいたろう。彼女の描写は驚くほどに克明。1級資料といってよい。
同じく1級資料。エドワード・S・モースが明治15年頃に撮影した屋台。屋根のないカタチだが、なかなかに凝った造りでらっしゃる。わけても「義経」の看板部分は秀逸。五条の橋での弁慶との遭遇らしきが描かれた絵がその上にあって、イメージ作りがこまかい。貝塚の発見で高名なモース先生は、こんな所にも着目していて、さ・す・が。
奇しくもイザベラさんが描いたと同様、この屋台でも引き出し1つを開け2つの塔屋に板を渡してる。作業効率のアップというか、システム化された形状がここに垣間見える。
両店ともに風鈴を吊っている。かけ蕎麦だけの「夜鷹そば」のチープな店じゃなく、オアゲとかの具をのっける店ですよ~、という江戸時代以来の屋台シンボルだ。
江戸時代の書籍の挿絵
絵草紙「忠臣蔵前世幕無(ちゅうしんぐらぜんぜのまくなし)」の挿絵。右に担ぎ屋台。やはり風鈴が描き込まれている。中央は甘酒売り。
担ぎ屋台の床面積は、概ねで畳一枚ほどのサイズ。
高さは2メートルあるかないか。幅は人の肩幅程度。
まことにコンパクトながら、1軒の店なんだから素晴らしい。
しかも移動が前提だ。
たぶん、世界に類例なきな独立移動小店舗の白眉、日本が大いに誇っていいカタチだ。なのでイザベラさんもモースさんも、そこに眼を向けたワケなのだ。
指の先ほどの小さな小物たち……
創るにあたり、チョイっと調べた。
一杯の蕎麦は二八の16文が江戸時代後期の相場。
明治4年に通貨は円になるけど同年で5厘。
亜公園が出来る明治中頃では1銭〜1銭5厘くらい。今でいえば、200〜250円くらいか……。
一日に50杯売れたら、250×50で12500円。
当時、大工の日当が安くて10000円(今の換算ね)くらい、野菜の行商が5000~8000円くらいらしいから、客次第で屋台は高収入になる。
そこで亜公園の中という限定された場所を想定すると、当然に娯楽施設なのだから人は多い。当時の岡山市内で一番の繁華地だ。
昼食時、夕食時。ピーク2つを思えば、はたして50杯だけか? ヘタすると100杯を越える可能性がある。
蕎麦の玉もその分用意しなきゃ〜いかん。
さ~、そうなると、小さな屋台に100玉もの蕎麦を収納出来るのか? という問題が出てくる。
それで……、当時の概ねの屋台よりは備品数が多い店というカタチを考え、さらには、この店のオーナーは、亜公園近くの上之町だか石関町だか弓之町あたりに住まい、夜に蕎麦を捏ね、打ち、刻み、翌日営業分の100玉を越える数を揃えている……、というような生活スタイルも考えた。
仕込みはあくまで自宅でだ。
明治26年刊の職業一覧『岡山鏡』によれば、うどんと蕎麦を扱っている方が1名、中之町にいる。「煮売屋」の欄には亜公園近隣として、上之町・中之町・下之町で5名(あるいは5軒)、石関町で3名、弓之町には10名(10軒)が記載されている。通常、屋台は煮売に分類される。
この資料から、その内の誰かが「雷神蕎麦」をやっている……、と設定した。
(弓之町に煮売屋が多いのは県庁のすぐそばだからだ。庁舎勤務者の昼食需要が大きい)
亜公園オーナー片山儀太郎との契約で、店は毎日撤去せずともよく、園内のどこか雨のあたらない家屋そばに撤収するのみであるなら、これは随分に助かる。仕込んだ蕎麦とツユ、酒、炭なんぞを営業前に運び込むだけてオッケ~という次第だ。
なので、この「雷神蕎麦」には、2つ、煮鍋を装備させてみた。
下段が炭箱。2段目は穴があいていて鍋をセットする。
通常、このカタチでの屋台は、煮炊きの炭箱(火鉢)は1つっきりなんだけど、あえてツイン仕様だ。
1つで蕎麦を湯がき、1つで蕎麦つゆや燗酒を温っためるという、ゴ~ジャスかつファーストフードの本領発揮の先進スタイル……。
ま~、その分、せわしないはずだけど、せわしなさはそのまま収入だ。
という次第で、一般的屋台より備品が多い。
蕎麦などを収納する引き出し箱は、屋台とは別個にあるというカタチ……。
資料がないので決定的とはいえないけど、当時の屋台にほぼなかったと思われる丼の簡易洗浄用の桶もある。(当時は使用後に布巾で拭う程度だったと思われる)
ま~ま~、ともあれ、亜公園内で営業していたという想像の元での「雷神蕎麦」。
基本形は深川江戸資料館にある原寸復元の「風鈴蕎麦」を踏襲。4段棚を5棚に変えたり、若干のアレンジをくわえた。
浮世絵。落合芳幾画『江戸砂子々供遊』
市松模様の障子や屋根(紙だよ)。これは江戸時代の中頃、初代佐野川市松(さのがわいちまつ 1722~1762)が中村座での歌舞伎「心中万年草」で着けた白と黒のチェッカー文様の袴がスタートだ。
それまでにない斬新だったんで、たちまちブームになった。江戸のブームは流行通信としての浮世絵に描かれ、たちまち日本中、チェッカーチェッカーに、なっちゃった。
着物の図柄やら、屋台の障子やらやら……。
石川豊信描くチェッカーな帯
この流行でもって「市松模様」といわれるワケだが、「雷神蕎麦」もそれをそっくり踏襲だ。明治の屋台ゆえ、チェッカー障子はやや復古調という次第……。
看板部分はロウソクが灯されてたはずだから、LEDの「ゆらぎ灯」でも入れたら良かったか……
上は歌川国貞(1786~1865)が描いた浮世絵「當穐八幡祭(できあきやわたまつり)」(太田美術館蔵)。
この屋根も紙製チェッカーだ。雨天では営業する気がないらしい。ま~、このあたり、実に江戸っ子らしい気風が知れ、好感。
(唐傘のように油紙を使ってるなら、濡れてもオッケ〜だな)
ちなみに、「二八そば」の文字下のグニャグニャした部分は、
「うんとん」
と、読む。当時はうどんをそう書いた。この店は蕎麦とうどん両方扱ってるワケね。
で、店のおやじ。
国貞描いた重ね着とポーズをそのまま模倣。(完全立体じゃないけど5つのパーツで構成し、折り曲げ加工なんぞで立体にみせている。眼鏡のみ2021年仕様)
と、ま~、こんな次第での蕎麦屋台。工作しつつ、燃えてる炭のままに移動したのかしら? 湯をきったり丼洗ったりでけっこう地面が濡れるだろな? 障子も熱や湯気で傷みが早いか? 食べ残しの場合どうするんだ? あれこれ現実のコトとして空想しちゃったりもしてけっこう……、学習しちゃいましたよ。
もっとも、これを担ぎたいとは思わない。重さに耐えかね5メートルも歩めないと確実にいえる軟弱ひ弱、空想の中の「雷神蕎麦」のオヤジの肩と足腰の屈強にただもう羨望するだけなのだった。
「雷神蕎麦」模型フルセット。屋台部全高18㎝。手前の桶たちは食器洗いの簡易セットのつまり……。