20日に開催予定の西大寺の裸祭り。今年は関係者以外の境内立ち入りを禁じ、宝木は投下するけど参加者は過去に福男になった人のみで、競り合うことはさせず、住職がフダをひいて本年度の福男を選ぶそうな。
裸祭りがはじまって500年以上が経つけど、初のことらしい。
ま~、しゃ~ない。
ちなみに、高齢で1月に亡くなった我が親族は、若い頃に裸祭りに参加し、争奪戦が開始されて揉み合いに翻弄される中、たまたま飛んで来た宝木が手にあたり、すかさずマワシのタマタマの近くに隠し入れ、両手を上にあげて、
「ボクちゃんも探してるよ〜」
なフリをしつつ裸衆から離れるべく、徐々にその外周へと移動し、たまたまに社務所前付近に押し流されたので、ここぞとばかりに駆け込んで、その年の福男になったラッキ~マンだった。
けどもその事をけっして自慢せず、実に謙虚に言葉少なめに、
「いや〜」
と頭をかいて、
「たまたま」
と申されたグッドマンだった。
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さてと、また亜公園のことを。
亜公園には街路灯があった。
4燈あった。
ガス燈か、西洋燈か、アーク燈か?
『岡山亜公園之図』(岡山中央図書館蔵)の街路灯部分
その街路灯それぞれのそばに小さな八角形の塔屋がある。
これも4つ、ある。
そこで、この塔屋はアーク燈のための動力源、蓄電池を置く“小屋”ではなかったかしら?
そう思って当時の電気事情を記した本やらで諸々を精査し、
「おそらく、そうだろな」
ほぼ見解を固めたのだった。
『岡山亜公園之図』の小さな塔屋。
部分のアップ
で、最後の一押し、フィニッシュのイチバン搾りとして、やはり当時の事情を知る手がかりになる関連本を何冊か仕入れ、確認がてらにめくってると……、すると照明の話じゃない所で、
「おやっ?
立ち止まるべきな記述があるじゃ~ないの。
予期しないカタチで想定外な形のモノが出てきてしまった。
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江戸時代末期から明治になった頃、横浜港界隈での話。
日本にやって来て横浜に滞在した外国人たちが、
「ワッ! 何てこったい!」
おどろき、あきれ、声高に非難し、日本政府にクレームを入れたのが、日本人男性の「立ち小便」だ。
道ばたシ~シ~、壁にシャ~シャ~。平気の平左。
「何とかせ~よっ!」
英語やオランダ語やドイツ語でブ~垂れた。
日本は当時、公衆衛生の概念が希薄だったわけだ。
そこで明治政府はあわて、いわゆる外圧に押され、邏卒(らそつ。警察官の前身)に取り締まりさせた。
明治4年(1871)に発足した邏卒の仕事は、ほぼ、立ち小便の取り締まりが主務という有様だった。
それと同時に政府は、横浜の町の辻々に「路傍便所」というのも設置した。
四斗樽を地面に埋めてだなぁ、その廻りを板で囲っただけのチープなものだけど、一応、これトイレはトイレだ。
けどま~、ブッサイクだわさ。
そこで明治12年。外国人多数なオシャレ横浜にふさわしいのを考案したヒトが出てくる。
横浜「公同便所」の図。
鹿島建設が運営する鹿島出版会の本『ものの建築史 便所のはなし』より転載
それが、この図面だ。
六角形だ。西洋っぽいね。市内63カ所に設置され「公同便所」と呼ばれた。
総予算は2千円だというから、今でいえば10億円くらいかかってる……。
この建物、あんがいと大きい。六角のカタチを活かし、男性用6ケ、女性用途も含むであろう大用3ケを上手にまとめてる。トンガリ屋根は臭気抜きだ。
伊奈製陶の『厠まんだら』より転載
となればだよ……、明治25年オープンの亜公園の小さな塔屋も、トイレじゃないのか、いや、トイレそのものだよ~! という考えに急転直下するのだった。
『岡山亜公園之図』部分
なんのことはない。『岡山亜公園之図』を最初に見たさいの、
「トイレかしら?」
の素朴でストレートな感想が、実は正解だった……、ということになってきた。
数が多すぎると疑念し、早々にトイレ説は捨てていたのだけど、後述するけど、その数もキーポイントだった。
ともあれ、あれこれ考えた末に、ふりだしに戻ったワケだ。
しかしま~、これはこれでマッコト面白いのだ。
実のところ、明治4年まで、日本には公衆トイレがなかったワケだ。
外圧によって横浜にそれが出来、ついで政府は、明治5年に「違式註違条例」という、軽犯罪法を作って全国発令、街中での立ち小便を禁じた。
条文に、
「市中往来筋に於いて、便所にあらざる場所へ小便するもの」
「店先に於いて往来に向ひ、幼児に大小便せしむるもの」
罰則対象を小まめに明記した。
岡山でも、このために「公同便所」が出来た。
しかし、明治23年(亜公園オープンの2年前)の山陽新報によれば、屋根付きの「公同便所」は、わずか8カ所で、屋根のない坪(瓶?)を埋め込んだだけのもの41カ所……。
これが、岡山市の実態。
およそ、今の公衆衛生とはかけ離れてる。
となれば、亜公園の登場で、その4つの塔屋がトイレであるなら、岡山での屋根付きトイレは12カ所と、ぐっと数が増えたことになる。
亜公園は、岡山の公衆衛生面・美観面に大きく寄与したという事に、なりもする。
考察するなら、『岡山亜公園之図』は、その辺の事情も含め、あえてトイレを描き入れていたのかも……、知れないのだ。
サイズはそう大きくないよう、思える。
集成閣に準じて八角形なのだろうが、このサイズであるなら床面積はしれている。はたして内部に大用・小用をどれくらい設置出来たろう?
男女は別としたろうか?
あれこれ新たに考えることになっちまった。
が、ともあれ、お江戸の時代から明治にかけて、トイレがないから立ち小便したのか? 立ち小便で済ませちゃえるからトイレがなかったのか?
どっちでしょ、ねっ?
これケッコ〜大きな問題、だよ。