近所の水路

 

 今日はライブハウス・モグラに出かける気でいたけど、諸般の都合ありで身動きつかず。

 残念なり。

 けどもネット配信される予定だそうだから、「投げ銭」可能なり。

 クレジットカードで手続きしておいたんで、時間が来れば、自室でライブを見聞しよう……。

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 9日の夜。前日入りで来岡のミュージシャンと某BARで合流。

 

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 10日のライブ成功を祈念しつつ、共々、でっかいソラマメをば食べる。

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 さてと。

 我が宅からおよそ500メートルはなれた我が友Sunaちゃんの瀟洒なお宅までの間に、細い水路があってコンクリートで護岸されている。その脇をススイと自転車で通れば、彼んちにアッという間についてしまうのだったが、さて……、50年ほど前はこの水路周辺は田んぼしかなく、水路とて両脇に雑草が茂って魚がピチピチ跳ねる、実に良かアンバイでのどかな水のラインなのだった。

 

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すっかり宅地化されて昔と大違い。かつては田園の合間を縫う水路なり。幅も1/3くらいに縮小されている

 

 で、この細い、むろんに当時は舗装もされてない農業用水としての水路沿い(あぜ道)を高校通学で日々利用していたわけだ。

 時に歩いて出向き、時に自転車でいく。

 通ってる高校がすぐそばなもんだから、楽勝だ。

 

 2年生の冬だったか、自転車でここを駆け、よそ見したはずみ、水路に自転車ごと落ちたことがある。

 一瞬なにが起きたか判らなかったが、ともあれ水中だ

 全身ズブ濡れだ。

 ケガはしない。だってコンクリートの硬い護岸じゃなく、柔らかな雑草が生えた(冬だから枯れてるけど)盛り土だし、水路の底も泥でしかないから、擦ったり切ったり撃ったりがない。

 不思議と水は冷たくなかった。

 いや、ホントは冷たかったのかもしれないけど、咄嗟の水没で冷たさをおぼえるより、ビックリ衝動が大きかったのかもしれない。

 でも水底の泥は温かかったよう、思う。

 自転車をひきあげつつ笑いがこみ上げ、そのままグッショ濡れで学校へ行き、クラスメートどもに、濡れたザマをとくと見せて大いに笑いをとったあと、

「ほんじゃ、今日は帰るわっ」

 キンコンカンと一次元めの授業チャイムが鳴る直前に帰宅と決めこみ、悠々と退散。一日、学校をサボるのだった。

 

 その頃は障害物となる建物もなく田んぼが拡がっているだけだから、我が部屋から学校の様子がうかがえる。

 校内放送もすべてクッキリ聞こえ、あんまりサボッてる感じがしない。

 けども同級生どもは、授業でジッと椅子に座って聞きたくもないセンセの話を我慢していると思えば、気分スカッとさわやか。

 両親不在の台所でイトメンのチャンポン麵を鍋で煮て、

「ケケケっ」

 ほくそ笑みながらツルツルすすりあげるのだった。

 

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  いまだ我が定番。ワサビをお汁と鉢の境界に塗りつけ、麵にちょっとからめるのが我が食べ方

 

 そんなことがあった水路が、もはや魚は生息しにくい(それでも大きな鯉やフナの群泳が田植えの頃には見られる)ながらも、今も、形をかえてはいるがチャンと有るというのは感慨深い。

 

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 で、ふっと思うが……、より大昔はどうだったんだろ? 疑問がわく。

 肥沃な平野ゆえ、大昔から田んぼが一面連なり、そのための水路もあったはず……。少なくとも江戸時代頃の様相は想像しやすい。

 では、もっともっと古い時代はどうだ?

 たまさか近隣、賞田廃寺跡というのがあって、今は大きな公園として整備されつつある。

 古代の吉備国のなごり、いわゆる奈良時代、7世紀の頃には大規模な寺と備前国府が置かれていたらしい。哀しいかな文献としての資料が残ってないんで、詳細を詰めることが出来ないけども、そこに建っていたであろう家屋の礎を見るかぎり、規模がでかいし極めて精妙な施設であったとは想像できる。

 

 国府というのは県庁のようなものだから、だからその当時の岡山の中心であったことはマチガイない。

 13世紀の鎌倉時代頃までは存続していたようである。

 とにかくこの地域の中心であって、となれば、そのための道路もあったはず……。

 調べてみるに、どうやら道路ではなく、大きな水路があったようなのだ。

 旭川とも結ばれてはいるが、基本となるのは西大寺方面の海につながる幅広い水路だ。

 備前国府へ向かうにはその西大寺方面からの水路が、第1級の“国道”であったようである。

 

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 この当時、今の岡山市中心部界隈は川だか海だか見分けのつかない有様で、大雨のたびに広範囲が泥と水に覆われる程度な場所だった。

 岡山地域を記した最古の地誌『和気絹』(江戸時代に書かれた)でも、その昔は天神山と現在の石山公園付近と岡山城のあたりの、その3カ所のみが山のように隆起しているだけだったと書いているし、事実、源平合戦のさいには義経の部隊が石山に海を監視するための陣を設けていたというから、その当時であってさえ、地形は今とはひどく違う。海がすぐそばまで隣接し、さらに雨期ともなれば、どこが海やら川やら判らないようなアンバイだったのだろう。

 ま~、それゆえ、明治の時代、亜公園がテーマとした菅原道真ゆかりの場所(太宰府に流される途中の休憩地としての天神山)だったというポエジ~な伝承もまんざら絵空事でない真実みが濃密に塗布されているワケなのだが……。

 

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 ともあれ、大昔の岡山の地形は今とは大違い、であったことは間違いない。 

 岡山文庫にそのへんの事情を研究した本があって、掲載された水路図をみるに、様相が今とはあまりに違う。

 もはや地域名も変わって往事を偲ぶ手がかりとてないけど、大昔の文献なんぞでは、水路があった事を示唆する「大船」とか「舟着」といった地名だか場所があって、

「へ~っ」

 と、驚く。

 

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 大昔の絵図。上側の黒い部分が龍ノ口山で左側の黒が突き出たあたりが国府だった場所付近

 

 龍ノ口山から見下ろすと、その山裾に沿って東西に延びた水路があり、2〜3艘の舟がすれ違って通行できるような、かなり幅広いのがあったと知れる。

 江戸時代に造られた百間川は、そのかつての水路の、当時とて名残りでしかなかったであろう地形の一部を流用して構築したようでもある(中区米田の辺りの90度迂回する場所あたり)

 

 ならば我が輩がボッチャ~ンと落っこちた細い農業用水路は、はるか古代のでっかい水路の支流みたいなものだったかもしれない。遠縁か子孫なのかもしれない……。

 そう思うと何やら不思議な気分もおぼえる。

 落っこちてなかったら、こんな風に思いおこして書き記すこともなかったろうから。

 なので、「落ちて良かったぁ」とは思わないけど、落ちちゃったことが50年も経って、こうしてちょっくら一文を書くネタになってくれたのはマチガイない。

 どこでなにが繋がるか、わっからないもんだ。