洛中洛外図 舟木本

 

 本屋さんに自分の本(共著です)が積まれているのは……、嬉しいような不安なような、妙な感じをおぼえる。売れて欲しいけど、一方で、いつまでも積んであって欲しいような、充ちと欠けが一緒になってユラユラする。

 過去、何度か模型本の出版を味わってるけど、こたびはやや趣きが違う。岡山という一地域の、それも明治時代の事を書いた本なので、高知や新潟や福井の本屋に並ぶことはないだろう。

 それゆえ余計に、何かしら気がかり。

 

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 さてと、以下、違う本のハナシ。

 

 過日。

 届いた本はヤッタラ縦長なのだった。

「あっれ~?」

 咄嗟に訝しんだけど、次の瞬間には氷解し、

「あっ、そ~きたかぁ」

 なのだった。

 

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        ほかの類似大型本との比較。図抜けて背が高く……、本棚に収まらない

  

 要するに、屏風だ。

 厚めの紙を用いて屏風の姿をそのままに、本仕立てにしたというワケなのだ。なかなか、気がきいている。

 裏面に、六曲一双のカタチをそのまま25%に縮小した、と書いてある。

 初版が出たのは2010年で、東京国立博物館凸版印刷とが当時では最高水準の印刷技術でもって、”本仕立て”にしたようだ。

 

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 しかし……、やはり縮小は縮小だ。

 迫力の75%分は入っておらず、25%出力での静音可動といったところか。

 よって、あくまでも擬似的に楽しむっきゃ~、ない。

 眺めるこちら側ニンゲン・サイズを縮めなきゃ~、しっかたない。

 

 舟木本は、豊臣秀吉時代の京都を描いてる。

 自分としてはより古い、室町時代のカタチが見える上杉本(信長が謙信に贈ったもの)がイチバン好みなので、チョイっと残念でもあるけど、屏風のカタチをシミュレーション的に味わえるという点では、ありがたい。

 以前にも書いたことだけど、1隻の高さは当時の成人男性より高い1.7メートル前後あり、幅は3.5メートルもある。これが2枚なんだから、この「洛中洛外図」を眺めるには7メートル超えのスペースが必要だ。

 信長が「上杉本」を謙信に贈ったさいも、上杉謙信宅にそれだけの大きな部屋があるということを前提にしているわけだ。互いに権力者なのだから、それっくらいの部屋を持ってるのはアッタリマエだけど、逆に思えば、屏風でもって権力者のスケールも計れるようなところがあって、そこを思うとヤヤ面白い。

 端から端まで絵を眺めた謙信が、ほぼ7メートルをユルユルと移動したことは間違い、ない。

 酒が動力源だったらしき彼ゆえ、きっとおそらく……、片手に杯を持ち、チビチビ舐めつつ、京都洛中洛外の斬新を眺め入っては、疼くような都への憧憬を深め、同時にまた、そういう疼きを喚起させる絵を送ってきた信長に、

「いけ好かんやっちゃなぁ」 

 ムカッとしたり、イラッとしていたかも……、しれない。

 

 舟木本を描いたのは、岩佐又兵衛

 戦国時代から江戸時代初期にかけての人。1578天正6年)に産まれ1650(慶安3年)に没している。

 信長の息子・織田信雄の近習小姓として仕え、主に画業をやっていたらしい。大坂夏の陣の前、短期間京都にいて、この京都時代に本作「洛中洛外図」を造ったらしい。36歳か37歳頃ということになる。

 滋賀の舟木家が持っていたので、それで舟木本といわれる。

 又兵衛は40代になって福井藩主に招かれ、今の福井市に移住。その後、2代目将軍・秀忠の招きだかで江戸に移住し、徳川家光の娘の婚礼調度品などの製作なんぞもやったらしい。あちこちを点々とした生涯だが、いまやその舟木本が国宝(2016年指定)になってるというコトを当然に本人は知らない。

 

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               岩佐又兵衛 自画像 MOA美術館蔵

 

 この自画像はなかなか味わい深い。

 テーブルにコーヒーミルとトースターが置かれているように見えるが、むろん、そんなワケはない。

 額の広さとハゲた頭。憂いある山羊のような眼差し。この憂愁な目線に思慮深さを感じられるが、同時に孤独な感も伝わってくる。

 彼の父親である村重は信長の家臣だったけど、謀反を企て失敗。信長にテッテ的にやられる。一族はその家臣の家族をも含めて皆、殺されてしまう。

 けどもその時まだ2歳だった又兵衛のみが救出され(乳母が抱えて逃走したらしい)石山本願寺(当時は信長と敵対する巨大勢力)に保護された。そんな理由あって性を母方の岩佐にした。(村重本人は逃走を繰り返して最後は出家、52歳で没す)

 その後アレありコレありして、一転、信長の息子だった信雄の近習として仕え、豊臣政権となった世の中を眺め、さらに徳川政権への移行をも体感しているわけで……、大波の連打の中を生きたような人だった。常に権力者の近場にい、その意向で絵を描いてた。

 だから晩年になっての自画像が奇妙なほどに、味わい深い。

 

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 多くの修羅を見たであろうに、眼に殺伐がなく、山羊のように柔和で、なので一種の不思議を誘うんだ。

「洛中洛外図」を描いた36歳頃は既に豊臣家は滅んでる。その滅んだ豊臣の全盛期の京都を、彼はどういう気持ちで描いていたか、そこも興味深い。

 おびただしい数の人を彼は描き込んでいる。屏風の中には2500人を越える人物がいる。(国立博物館によれば2728人だそうで)それぞれが個性を持って描かれ、1人1人を抜き出してみれば、いずれもが大きなドラマを抱えていたであろうと察せられもする。アートであると同時に当時の克明な記録とも思えば、国宝に価するのは当然だろう。どんな気持ちを抱えて描いていたか……、そこがこの屏風を眺める時の、要めの1つだなぁ。

 

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 左隻第二扇に描かれた祇園祭の光景(部分)。雅びな今の行列と違い、参加者はそれぞれ好き勝手放題な衣装を着けて大いに“かぶき”、舞い狂ってた。それを見るための観覧席もある。

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 同じく祇園祭の部分。南蛮人が行列参加と思いきや、実はコスプレ。しかも複数でもって主従関係まで演出したチームプレー。おそらくは、あえて踊らず、ただ粛々と威厳をもってナリキッテ歩くことで、彼らなりの“カブくこと”の昂揚を味わっているのだろう。なかなかの強者たち。

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 同じく祇園祭の部分。この南蛮人もどきもコスプレーヤー。こちらははしゃいで踊ってる。左の武者コスプレ野郎はきっと友達だろう、互いに自己主張を譲らずでチームプレーの域に達してない。そばでオバサン笑ってる。

 

 祇園祭はこの当時、疫病退散を祈願祈念する巨大な祭で「祇園会」といい、身分に関係なく誰でも参加できた。大勢が集合すればするほど、そこにエネルギーが充満する。

 疫病コロナウイルスじゃなく疫痢や赤痢をその充満したチカラでうっちゃってしまおうと、した。

 ハチャでメチャな、いわばエネルギーの大発散の場所だったのが祇園祭。なので毎年、規模のでかいケンカも起きて死者が出た。

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 又兵衛は、信長に惨殺された母親や一族を反面教師にしてか、テッテ的に権力者の近場に立ち、その懐にあえて飛び込み、けれど決して時流に流されず、政治的渦中には足を踏み入れず、ただ絵筆1つでもって、生きた時代の光景を切り取ってみせるという”偉業”を成しちゃった感が、濃ゆい。

 織田家に向け、あるいはその後の権力の頂点にいる者に向け、絵でもって拮抗し、存在を知らしめ、いわば画業において1人の大名級の存在となって父母の仇をとったと、そう解釈するのはヤヤ大袈裟か。

 

 その偉業の25%縮小をば、虫眼鏡(メガネ仕様)で眺めてる今日のわたし。

 コロナ禍、こういう“鑑賞”時間が増えちゃってる。

 これって、いいこと? いいや。

 じゃ悪いこと? いいや。

 でも、はるか昔の京都での、「祇園会」での喧噪を屏風の中(一部分ですが)に見て、疫病を恐れ抗ってる人達の気分と、今の我らの鬱屈気分がリンクしていたり、あるいはリンク切れちゃってるとか、モロモロ思えたり出来て、そこは、マルっ。

 

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