おととい、定例化している諸先生方とのzoom呑み会にて、Eっちゃんが贈ってくれたRSK山陽放送の例の放送部分録画およそ10分を“上映”。
モニター画面の中、諸氏の反応を直に見るのは、面白かった。
zoomを使っての「疑似呑み会」に当初は違和もあったけれど、毎月やってると馴染んできて、これはこれで有効なり。sunaちゃんのPCR検査の顛末には大笑いさせられた。
一方で、この危ういコロナ禍、世論調査によれば、チョイっと前まで無観客を要望していた声が一気に半減し、容認に転じているようで、ヒトの気分の変わり身の早さに唖然ともさせられ、
「いいのかよ~、お~い」
流れのままに流されるコトの是非を思う。
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さてと今月に観た映画たち。
『キラー エリート』 Killer Elite 2011 amazon prime
ジェイソン・ステイサム、ロバート・デ・ニーロ、クライブ・オーウェンの3人の大物役者登場でそれぞれの見せ場を維持したままどういう結末になるかしら?
と思ってたら、あんのじょう、3人ともども、それなりにカッコ良く終わる。
ま~、それだけの映画ながら、アラブ系中東の政治的情勢やらアラブ系家族主義やらの欧米化されない文化事情の根深さみたいなものに欧米のこの映画もまた、苛立ちを含んだ不可解でござ~いを溶出させていて、そこが面白くはあった。
『MALAVITA』 マラヴィータ 2013 amazon prime
マーティン・スコセッシが製作にからみ、ロバート・デ・ニーロ、ミシェル・ファイファーにトミー・リー・ジョーンズ……。FBIの保護の元に秘密裏に生活する元大物マフィアの家族の話。真顔のコメディ。
FBIの眼を盗んでは相手ボコボコのデ・ニーロを筆頭、ファイファー演じる女房も高校生のその娘と息子もハチャな暴力家族。笑わずにはいられないが、軽量なコメディ。
潜伏の引っ越し先の隣人に作家だと偽ったがゆえ、次第に真摯な自伝を書きはじめるあたりが、マル。軽っぽい映画ながら、さすがデ・ニーロの重量級な存在感。それをば堪能。
『ダーク・シャドウ』 Dark Shadows 2012
封切り時に観ることかなわず、そのまま忘れてたけど、amazon primeにタイトルがあったんで、観る。
エスカレートし続ける展開にはさほど醍醐味をおぼえなかったけど、脇役のミシェル・ファイファーに、2006年の『007 カジノ・ロワイヤル』で濃い印象を残したエヴァ・グリーン、さらに、子役で出てるクロエ・グレース・モレッツの3女優に着目しっぱなしだった。
モレッツは今は24~25くらいだろうが、本作の1年前、『ヒューゴの不思議な発明』で妙に芸達者な少女だな~と思って印象に残り、2014年のデンゼル・ワシントンの『イコライザー』ではロシア人の幼い娼婦を演じてもいて、かつてのジョディ・フォスターを彷彿するようなトコロがあって、印象深い。
ヘレナ・ボナム=カーターを含め、なんだか女優たちの映画に見えもして、主役のジョニー・デップより彼女たちに眼がむいた。
ヴァンパイア化したデップと、悪魔化しているグリーンとの、部屋1つを破壊する激しいセックス・シーンには苦笑したけど、そのあたりの過激過剰が監督ティム・バートンの本領かいな。
『舟を編む』2012 amazon prime
なにか、どこか、すべてが、ぎこちなかった。
10数年の歳月を経て1冊の国語辞典が出来上がる過程そのものはマルながら、予定調和な展開がつまらない。
宮崎あおい演じるヒロイン名がカグヤだからといって、彼女の背景に超でっかい満月を置くセンスのなさ。
編集者の1人・伊佐山ひろ子が良い。松重豊の『孤独のグルメ』の第何話だかで、松重演じるゴローちゃんのプランを上から目線でケチョンケチョンに扱う建築事務所のアルバイトでしかない女性を演じて、伊佐山はすごい存在感を見せたけど、この映画でもそう。監督の力量よりも伊佐山の存在が優り、その分、監督は得をした感あり。
映画の終わり近く、松田龍平と宮崎あおいの自宅でソバを食べるシーンがあるけど、宮崎は女性板前で店をもつ身。なのに箸の置き方がぞんざい。箸置きさえない。30歳の若い監督の眼の届きがいたらない。この程度が同年の日本アカデミー賞なんだから、どうかしてる。
『天地明察』2012 amazon prime
算学と天文。暦の大事さ……。岡田准一と宮崎あおいの恋愛模様……。そのあたりが我が関心の中心。
市川猿之助、笹野高史、岸部一徳の演技がいい。一方で保科正之に扮した松本幸四郎は大御所でございな雰囲気がダメ。
映画としてはヤヤつまらない。改暦反対派の武装集団が天文所を襲い、岡田の恩師が岡田をかばって射殺されるシーンなど、史実にも原作にもない余計な映画的スペクタルを混ぜちゃったあたりで、この映画、ペケ。
映画は映画、原作はあくまで原作なのだから2者がベツモノであって一向に構わないけど、この映画はそこの「踏まえ」が伸びた輪ゴムみたいにユルイ。なにより岡田准一の魅力をこの映画では活かせてなく、それが最大のペケ。
『グリーンブック』 Green Book 2018 amazon prime
60年代、黒人の高名なミュージシャンとその専属ドライバーになった白人の実話。色々と賞をとって評価も高いが、アカデミー賞の作品賞をとったさい、スパイク・リーは大いにブ~イングし吠え猛った。
こたび初めて観て、スパイクの見解に納得。
とどのつまり結末部で躓いてた。
絶妙で無自覚な視点の差が白人優位をいみじくも示唆し、その最終シーンでもって映画そのものが台無しになってた……。残念というしかないけど、スパイクの抗議を機に米国アカデミーの姿勢制御がはじまったのは、ま~、マルだねっ。差別問題を主題とする映像の作り手は、この先いっそうに自身の作品を精査しなきゃいけない。
その一点では、スパイク・リーも同じ土俵。白人を嘲笑ぎみに描く手法もまた今後、逆説的に、「どうなの? それ」と問われる時代が来るような気がしないでもない。
『DANTE’S PEAK』ダンデス・ピーク 1997 amazon prime
VHS時代に2~3度観ている。リンダ・ハミルトンの演技がよろしい。小さなスナックバーの経営者で小さな町の市長(郡長が正しいか)でありながら亭主に逃げられていて、それで町にやってきたビアーズ・ブロスナン扮する火山学者と懇意になって、さ~さ~、ひょっとしてセックスするかもとの心の動きがコミカルに演じられ、いい感じ。その2人の子役もいい。
町1つを灰まみれにしてケッコ~お金がかかった映画。雲仙普賢岳の破滅的噴火から30年ということもあって視聴したのだけど、俊足で駆け下りる火砕流も描かれている。ま~、その状況でブロスナン達が生還するのは、雲仙の現実をみるまでもなく、娯楽映画ゆえの……。
1980年のワシントン州のセント・ヘレンズ山の大噴火をモチーフにしているらしいが、実際のその噴火の写真など見るに、かなり強烈。
『嵐電』2019 amazon prime
前々回だかでも触れたけど映画というカタチの奇妙な魅力が伝わってくる。ストーリーを追うだけの映画じゃない。むしろ、ストーリーを解体させるべく作ったフシあり。ただま~、音楽にあがた森魚を起用したのは、正解のようで正解でなかったようなカンもあり。
いうまでもなく、こんなカタチの映画ばっかりじゃ~、それはそれでちょっとシンドイ。
モチーフとなった京福電気鉄道嵐山本線(嵐電)は路線距離が7.2Kmのみだけど、明治43年に営業開始だから、歴史が古い(岡山電気軌道は明治45年)。太秦を含むその沿線は、だからこの路面電車が光景の一部として生活に溶け込んでいるわけだ。
路面電車といえば、大滝詠一、松本隆、細野晴臣、鈴木茂のはっぴえんどのアルバム『風街ろまん』が直ぐに想起される。LPの中ジャケットには大きく路面電車の絵があり、松本の歌詞にもそれが反映している。とりわけA面3曲めの「風を集めて」は、今現在の日本とズバリ重なる。
松本は幼き頃、64年オリンピック開催がために生家が立ち退きを強要され、当時遊んでいた子供たちとも別れ別れになってしまったことを哀しむ。近場を駆けていた路面電車の路線も移動だか撤去され、光景も人の交流も一変したのを嘆く……。そのことをアルバムのコンセプトにし、産まれ育った東京への憂いを歌詞とした。だからこそこのアルバムは反抗気分としてのロックそのもの、なのだった。
そういう点において、この『嵐電』もまた、失われていく光景とそこに住まった人々の”記憶の固執”といったようなニュアンスでの憂愁含みの「気分」を映像化……、といえなくもない。
静かな映画だけど意外や、ロックした映画なのだった。
『カツベン』 2019 amazon prime
周防正行監督の最新作。
かつての周防映画で花形脇役だった面々がさらに奥の脇役にと後退して、世代的交代を監督は意識的に実施したようにも見受けられ、寂しさもチラリ。
けど一方でそれが、およそ100年前の無声映画時代の“去りゆく映画弁士”の存在と重なり合うような意識された起用とも取れる。
あえてわざわざ劇中の無声映画を白黒で創ったあたりも監督のワザあり。まさか草刈民代が外人女優に扮してたとは、最後まで気づかなかったぜ。
後半部の追いつ追われつの展開は……、ヤヤだるかった。いや、かなりだるかった。
2019年度の日本映画アカデミー賞で監督賞含めてアレコレな賞を受けてるのだけど、『Shall we ダンス?』の頃ほどの濃いインパクトがなかった。
タンスの引き出しによる滑稽なケンカ・シーンには、「しゃれうぃ~タンス」みたいと笑ったけど、かつて無声映画時代にタンスはギャグの道具として使われていたらしいから周防監督のオリジナルじゃないけど、ともあれ笑えた。
主役の成田凌はいいね。ヒロインのクモが苦手の黒島結花もよく、2時間と10分ほど退屈しなかったし、映画館のある町の一角が、彩色された大正時代頃の絵はがきを見るようで、そのあたりの美術もなかなか良かった。
かつてのキレとコクが薄まっているよう思えたけど、これまた……、映画館で観ていない自分をちょっと恥じた。映画評価のバロメーターでイチバンに大事なのは、映画館でそれを観たかどうかだ……、とも思ってるから。
でもまた一方で、amazon primeでこうやって自室でラクラクに観られる現状をも肯定してるワケで、ともあれ、ウダウダ云わずとも、1本の映画2時間ほどと過ごしてる自分というのが、お・も・し・く、もあり。
先に書いた追っかけシーンの導入部で、「スマホ落としたよ」と聞こえるシーンあり。成田凌が賞を受賞のヒット作『スマホを落としただけなのに』へのラブコール? まさかね、周防監督がそんなコトやるワケない。
『舞子はレディ』 2014 Blu-ray
今月観た唯一のBlu-ray。この周防作品のことは封切り時まったく知らず、あとで知って、「ありゃ~」と残念がったけど、1年ほど前にレンタル落ちのBlu-rayを廉価で買い、それをこたび再視聴。
実はまだ最後まで観きっていない……。
理想化された京都に鼻白むようなところがあり、舞妓研究の若手大学教授にも好感しない。良いところも多々あるけど、どこか、なにか、薄い皮膜みたいな違和感が終始して、それで観るのを途中で止めるというのを繰り返している。
ミュージカル仕立てが悪いのではなく、「なんか、この京都は違う」みたいな違和感。『カツベン』を観て、再トライしたわけだけど、あきまへん。強調される京都弁の中の冷ややかさみたいなものに、はじかれる。
『Field of Dreams』 フィールド・オブ・ドリーム 1989 amazon prime
かつて封切り時、映画館で見たさいの醍醐味を再び味わえるかしら? そう思いつつ眺める。ケビン・コスナー以上に奥さん役のエイミー・マディガンがよく、さらにいいのがジェームズ・R・ジョーンズとシューレス・ジョー・ジャクソンを演じたレイ・リオッタ。
野球選手たちのゴーストが続々に登場するも、そこを説明なんぞはしない映画的マジックが要め。『嵐電』もまたこの感覚に近いが、『嵐電』の方がより積極的に“映画って何ぞや”を問うている。この映画はもっぱら、良き60年代への郷愁がメインの隠しテーマというか隠し味。
ちなみにエイミー・マディガンはこの当時も今もエド・ハリスの奥さん。離婚しない米国人俳優カップルは珍しいから、妙なところでこの女優さんに興味あり。なぜか70年代頃の大滝詠一のサイダーのCMソングを想い出す。
2020 amazon prime
今月観た映像中、イチバンにショッキング、かつ、示唆に富んで、含有物の量がマックスだった。
当初は観るのを躊躇した。いまさら三島でもあるまい……、と思いもした。
右翼の三島、左翼の学生たち。激烈な対立以外のナニモノでもなく、対峙した喧噪以外に得るものはないだろうと思ってた。
けれど蛮勇ふるって観るに、そうでなかった……。
フタを開けるや、信じがたいホドの言葉の応酬。今となってはまさに「豊穣の海」としか云えない、言論闊達な応酬なのだった。
希代の天才作家・三島由紀夫と、血気盛んな東大全共闘の討論会の全貌。時は1969年5月13日。東大駒場キャンパス900番教室に、1000人を越える学生たちが集まり、今か今かと待ち受けていた。旧体制変革のためには暴力も辞さない東大全共闘のメンバーがこの討論会の首謀者。~~~~~ 「三島を論破して立ち往生させ、舞台の上で切腹させる」と盛り上がり、異様なテンションが充満している敵地に、三島は警察が申し出た警護も断り、その身1つで乗り込んでいった。
この危険な討論会の場を当時TBSが取材、録画していた。その映像記録がこの作品。
ファナティックな展開となろうコトは誰もが予想し覚悟したはずだ、当時。だから後に三島と共にこの世を去った森田必勝ほか数名の楯の会メンバーが密かに1000人の学生の中に紛れ込み、三島が襲撃されたさいの楯となるべく潜んでいた。
ところが、そうはならなかった。
言葉の応酬に徹した。
驚くべきに、互いに聞く耳をもち、誹謗も中傷もない。先方が言い終えるや即座に返答があり、その返答にさらにと言葉が続く。
互いに媚びず、また互いに、言葉に流されない。
その応酬に場内は時に大爆笑、時に敵たる側への拍手まで、おきる。
三島はひっきりなしにショート・ピースを吸い、学生たちもまたシガレットにお茶をすする。対話は時に抽象的になり、時に具象的なものとなる。
当時の全共闘で最大の論客といわれた芥正彦が学生結婚して生まれた女児を抱えつつ、認識と行動の二元対立についてを語り、右と左、体制と民衆の相違を云い、右翼陣営を「日本がなければ存在しない」と揶揄するや、三島はすかさず、
「そりゃ、僕だ」
返答し、場内はドッと湧いて爆笑となる。そして三島はすかさず持論を展開する。
野次も飛ぶ。
その野次った学生が壇上にあがり、三島に言葉をぶつける。
三島はショート・ピースを手にしつつ、それに答え、さらに話を展開させていく……。
つい数週前に国会で党首討論会があったけど、この映像を見るまでもなく、痴戯で幼稚、あまりのレベルの低さに唖然とするほどに、50年前のこの討論会の両者は「言葉を持って」いた。
で、2時間に渡る討論のさなかに、次第に炙り出てくるモノの気配がある。
そのことを、今もお元気でらっしゃる芥正彦がインタビューに応え、
「右翼でも左翼でなく、あやふやで猥褻な日本国……」
真摯に、50年前の討論会で炙りでた日本というカタチのイビツを回想する。
三島の決起と自殺は、この討論の1年半後のことだけど、三島は既に、その来たる日のことを覚悟していたと思われる言葉を発してもいる。
が、それよりも何よりも、50年前、暴力ではなく、言葉が炯々とし、大いに活用されていた事実を知らされて、そこに衝撃させられた次第。
右の三島も左の全共闘もある種の暴力を肯定する。はっきり公言する。が、それでいて、討論の場においては徹底して言葉を駆使し、言葉による言葉でのコトダマを響かせようと努める。
そこが何より鮮烈でショッキングだったわけだ。この50年で言葉は退化してしまったか、と痛感させられ、その復旧と復興を切に思った映画じゃあった。
芥は回顧して云う。
「言葉の最後の時代だったかも……」
後年に彼は寺山修司たちとも親交するが、思えばその寺山は『詞のボクシング』というカタチを考案していたね。
コ・ト・バ、で闘える時代でない、言葉が矢面に出てこない、今の僕らの退化っぷりが口惜しい。