朝の4時前頃に外に出ると、南東の空にオリオン座が昇ってる。
この冬の星座を歓迎するように、庭のどこかで鈴虫がないている。
ヒトが寝静まった夜中に、季節の変わり目ギアが動いてる。
不確定要素だらけの地表のドタバタに比し、天体は確実に運行し続けているワケで、そこを確認のために朝の4時頃外に出てみるのもイイもんだ。広大で茫漠とした寂寥をおぼえると共に、揺らぎのない悠々堂々に安堵に近い気分が味わえる。
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R・ストーンズのメンバーでは、いつもヤヤ右方向に顔を向けてドラムを叩いてるように見えるチャーリー・ワッツが1番に好きだった。
98年の東京ドーム、03年の武道館と、2度、R・ストーンズは眺めたけど、しかし……、不思議な程にライブ体感の記憶が薄い。
眼は常にワッツの動きを追っていたよう思い返すけど、シーンとして頭の中に復元できない。
けど一方で、そのステージ見学の外郭での光景は幾つかしっかり記憶する。
その頃、単独で上京したさいにはいつも泊まったフェアーモント・ホテル(英国大使館のお隣・今はない)旧館の、即座に湯の出ないバスタブや、桜が咲きかけた(たしか3月末頃だったな、どちらのステージも)ホテルそばの千鳥ヶ淵を早朝に散歩してるいるさなか、ベンチ横に座ってたアウトドア生活のヒトと眼があって、なぜか互いにニヤリと笑ったことやらが、昨日の事のように思い出せる。
98年のさいは、ステージが終わって、チョイと手前、席を立つ高田純次に気づき、いかにも日焼けサロンで焼きましたみたいな茶黒いその顔が照明に浮いて妙に印象に残ったし、帰り、九段坂に抜ける田安門までの1本道が武道館から出てきた人で埋まりに埋まり、1歩進んで30秒止まり、また1歩進んで20秒止まるというカメの大渋滞やら、その田安門附近の照明の暗さとかも、濃く印象に刻まれているというのに、どうしたワケかステージの事がさっぱり思い出せない。
今も年に1度くらいは袖を通す会場で買ったツアー・Tシャツに面影があるにはあるけど、「見た・聴いた」の中身を思い出せないのが、口惜しい。
ともあれ、チャーリー・ワッツに合掌。ここ数日はR・ストーンズを背景に流してる。彼を追悼というよりは、「これからもヨロシク~」という感じが濃い。
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さてと8月の映画。
この作品、1990年に作られた。
当時レンタルShopでβ版を借りて、観たと記憶する。(レンタルShopという形態が出来た頃でもあったな)
なにより、諸星大二郎の漫画が原作なのだから、そこに興味が集中していた。
傑作とは思わなかったけど、妙に刺さるような印象が残った。
それを31年ぶりに、観た。
オリジナル・フィルムがレストアされ、こたび、Blu-rayが出たのだった。
やはり傑作とは思わない。
思わないけど、監督塚本晋也の若いパンク感ある不整脈っぽいリズムは、了解した。
31年が経過し、準主役で出ていた工藤正貴(パパは伊沢八郎で姉は工藤夕貴)はすでに引退し、主役の沢田研二はタイト・ボディからルーズむっちりボディに変じてしまったけど、そんなこた~、どうでもいい。とにもかくにも、30年を過ぎてようやく再会再見できた事が、喜ばしい。
かつて観たβテープ版画質とこたびのBlu-ray画質とじゃ、雲泥の差。
ひたすら暗い画面だった……、と印象されたシーンの諸々に諸々な輪郭があり、色彩が駆け、
「おやおやっ!」
新鮮を味わった。
そこに、31年ぶりの懐かしみと、31年前の田舎の校舎の良き風情への愛しみがからみあった。
ゴキブリが出てきて慌てふためき、狂乱の形相でキンチョールをまき散らす沢田研二のオーバー演技も、懐かしい。
繰り返すが傑作ではない。けども妙な味が、かつてあった安物の見世物小屋のドクドクしい猥雑と、いやぁ、そう見られちゃ困る、懸命に作ったんだというせめぎ合うエネルギーのぶつかりがあって、この8月に眺めた映画の中じゃ、あえて1番上にあげてイイ。
要は妙なエネルギーがスパークしてるんだ。
うまくヨイショして云えば、一人の男子高校生の一夜の悪夢を描いた青春映画、と思ってもイイ。
大きな話なのに、映画の中じゃ、夏の午後から真夜中にかけての時間しか持っていなくって、その凝縮を凝縮として感じられないのも、イイ。
インディ・ジョーンズのシリーズやらキャメロンの『アビス』やらカーペンターの『遊星からの物体X』やら金田一耕助の映画やらに着想されたらしき”イメージの代用”も多見するし、諸星の漫画の幾つかを合体させた事で中心核が平凡になっていると思わないでもないけど、ま~、30数年経って、云いたてるのは無粋。
家で容易に視聴できるようになったことが、何より。
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この8月に観た映画の中、もう1本あげるとなると……、amazon primeで観た『プラン9・フロム・アウタースペース』かしら。
1959年の米国製。
監督エド・ウッドのことはティム・バートンの映画『エド・ウッド』である程度は知っていたけど、こうして実際の作品を眺めみるや、ティム・バートンの“伝記的映画”じゃ伝わらなかったエド・ウッドという人の巨大な『不幸』をば、シミジミ感じるのだった。
要は、才能がないのだ。
描こうとしている壮大なテーマに向けての叡智がなく、ストーリー破綻。製作のための予算も劇的に貧弱。
気の毒を通り越し、ポッカリと口をあけて眺めるしか手立てがない駄作の中の駄作。
けども一方、メチャでハチャなことになっているに関わらず、とにもかくにも映画として大勢の人に観てもらお~という意思が石より硬かったらしいのだ、エドさんは。
ま~、そこのギャップの法外なでかさが、はるか後年、カルトな人気となってくるワケだけど、しかし、よくよく考えるまでもなく、何かに必死にしがみついているヒトというのは、いつの時代にもいるワケでもあって、たとえば、つげ義春は『無能の人』やら『蒸発』でもって、似通う人物を描いてる。
わけても『蒸発』に登場の俳人・井上井月のカタチには唖然とさせられ、滑稽と悲痛が混ざり合った末にもはや黙って凍えて微笑するっきゃ~ないという感触のみが残って、こっちが悶々させられもしたんだけど、エド・ウッドが脚本を書き、製作し、監督もこなしたこの『プラン9・フロム・アウタースペース』にも、ケッタイな悶々身悶えを味わうのだった。
辻褄の合わない脚本。
信じがたい程にモタモタした演出。
墓場のチョ~狭いセット。
役者総じてイモダイコン。
幼い子供にもそれと判るオモチャ以前の空飛ぶ円盤のミニチュアと、その飛行。
その円盤に乗る宇宙人たちの司令室は狭く、背景はカーテン。
円盤目撃の旅客機の操縦室の背景も、カーテン。操縦桿すら用意されない。
意外と思える程にカッコいい「決め台詞」の次に、セリフぶち壊しの予想外メチャ展開。
何しに来たのか判らない宇宙人と、一方的にブッ放すヤンキー3人の、大人の学芸会みたいな立ちんボ〜演出 ↑。
でもって、そのピストル1発の発射で空飛ぶ円盤火だるま炎上。宇宙人あえなく爆死のシュール過ぎな安上がり展開。
あげればキリがない。
1976年に米国で出版された映画評の本で、『史上最低の映画』という烙印が押されたのも頷ける次第だけど、が、そうであって尚、いまこうして白黒であった本作がデジタルで着色され、Amazon Primeでカラー版として公開されているという“ハッピー”をどう咀嚼したがイイか、いささか困惑気味に思ったりもしたのだった。この映画を”愉しむ”というよりは、この映画を作ったエド・ウッドという「無能なる人」が着目されている事実を否応もなく意識させられるんだった。
で。
哀れやなぁと同情しているのでなく、エドの映画愛を思うのでもなく、映画作りの才能がないにもかかわらず映画にしがみついてでしか生きていけないという、このヒトの存在に、なにやら怯えにも似た感慨を持つんだった。つげ義春が俳人・井上井月に着目したのと同様に。
よりベッチャリいえば、エド・ウッドに自分を投影出来る……、という怯えだな。映画に特化したハナシじゃなくって、“自己満足と他者の眼”という辺りでの哀しくも大きな乖離に関して。
なので気持ちのどこかに引っかかり、今月に観た映画の中、上から2番にのし上がってアグラをかいてるのが『プラン9・フロム・アウタースペース』、という次第。
唯一の見所、チョ~くびれた腰の吸血女。だけど、血吸わない。セリフ云わない。ただ意味ありげに出てくるだけ。きっと後のシーンで意味出てくるだろうと待ってもダメ。ちゃぶ台ひっくり返して「何じゃこの女!?」と吠えてもダメ。
映画巻頭と終わりでの大真面目ナレーターのセリフと中身ハチャメチャが水と油みたいに溶け合わないのも、すごくって……、星空を眺めるのとは別な悲壮な寂寥、ヒシヒシ。
まずさもまた味なり……、か?
いやいや。