この数日の就眠前は、堀江卓の漫画にどっぷり。
ご幼少のみぎり、年長のイトコが買った漫画誌『少年』に載ってるのを盗み読みしたと記憶する。
当時の月刊『少年』には別冊仕立てで付録漫画が数冊付いていて、『矢車剣之助』はそのフロクで読んだはず。
しかし、こたび、単行本化されたのを見返すに、どうも時間があわない。読んだ時期と漫画の発表時期にズレがある。
ひょっとすると、母方の実家そばにあった貸本屋でイトコが借りたのを盗み読んだのかもしれない。
その貸本屋は赤煉瓦の小さな店で、少年雑誌を含め別冊のフロクなんぞも貸し出してた。だから新しいのや古いのが、ある。
小さな店内には本がどっちゃりあり、本の匂いによる独特な空気がこもっていて、ご幼少のボクちゃんはその匂いを好んでた。なんか店内にいるだけで幸福な感じだった。
とはいえ、10円も持っていないから(例えとしてではなく実際に)、店主のおじさんに無銭立ち読み気づかれたらどうしよう……、棚の本に触るたび、いつもドキドキしてた。
昭和30年代の津山での話だ。『矢車剣之助』は、だから、我がイトコが借りたのをこっそりむさぼったのだろう、そう思い直している。
どのみち、自分で買ったわけでなく、借りたわけでもないけれど、幼い頃、かなりインパクトを受けた漫画だった事はマチガイない。
それをばおよそ60年ぶりに眺めて、就眠前、悦にいる。
なんちゅ~ても、矢車剣之助君が「夜の帝王」と名のって活躍というのが、素敵じゃないか。
小っ恥ずかしい名を堂々と名のれる厚かましさがイイじゃ~ないか。
でもって、彼の持つ鉄砲が凄すぎだぁ。
なんちゅ~ても、弾切れしないの。
無限に撃てる鉄砲だから、も~も~、それだけで無敵じゃん。
が、そんな鉄砲を2丁持っていつつ、敵もアッパレ、すさまじい。数で勝負してくる。同じのがイッパイ出てくるのだから、これまた頼もしい。
大勢で雪だるまに化けたり、将棋の駒に化けたりと、大がかりなカラクリでもって剣之助こと「夜の帝王」をば翻弄するんだから、物語中の夜は賑やかこの上もなく煮えたっている。
どこかで味わった感触だなぁ、と考えるに、草間彌生の増殖感に似てる。
なんのこたぁ〜ない、堀江卓ははるか大昔、すでに草間アートの先をイッちゃってるわけだ。
ひさびさ、あまりに面白いもんだから就眠時間を1時間ばかり早め、トットとベッドに横たわり、ページをめくってる。
ぁぁ、ホントは……、次の講演のための画像やテキストを用意しなきゃ~いけないのじゃあるけど……、テスト前に無性に漫画を読みたくなるのと同じ心理か、ともあれ剣之助君の活躍をば眺めては法悦しているのだった。
堀江卓氏は2007年に81歳で没してるが、オモチロイのを残してくれたもんだ。
懐古趣味で懐かしんでいるわけでなく、今イチバンにボクには“新しい”感触として読みふけってる。
『マトリックス』やら『攻殻機動隊』が物理法則に縛られない電脳世界でのアレコレを描いたと同様、堀江氏は昭和30年代に既にブツリもリカガクもプッツリ遮断し、すっ飛ばしたイメージの飛翔をやらかして、いやはや、そのフライトっぷりが素晴らしい。
突如出現の幾つもの将棋の駒コスプレの悪漢ども。
「なんじゃ、そりゃ!」
笑いつつもシュールなグラフイックス展開に気分が、火照る。
氏が亡くなった2007年に、今まで単行本化されていなかった『黒い野牛』というのが1冊にまとまっているので、こたび購入し、即座に読んでみたけど、この作品もブッ飛んでた。
幕末となって滅びつつある忍者のその1人に渡米のお誘い。で、米国に渡るや彼はとあるインディアン集団の酋長の息子というコトが判明し、そこから始まるブッ飛び展開。
忍者 -ガンマン - 西部 - 決闘 - 宝探し - インディアン - 騎兵隊
例によって、ブツリ無視の弾丸の威力炸裂。ここではライフル銃なのだが、その撃ち方に名がついてる。「真空回転うち」という。
ご本人が高速で回転しつつ1秒に何発も発射しちゃうのだ。
一方の敵方は地面に潜って、手だけ出し、西部鉄道の枕木のクギ引っこ抜いたりで大いに悪さする。そいつらは「ほろほろ団」と名乗っていて、悪さのさいは、皆なで一斉に、
「ホロホロホロホロ……」
念仏みたいいに唱えつつヤッて来るから、嗚呼、可笑しい。
奇想天外の4文字を超えるハチャっぷりが、ケッタイな増殖感と共に押し寄せてきて、これまた素晴らしかった。
が、やはり『矢車剣之助』の醍醐味がイイな。造語するなら「ホリエ・ダイゴイズム」かしら、1コマ1コマがダイナマイト。容易に次展開がよめない奇想の連打に、
「ハ~っ」
「ほ~っ」
「へ~っ」
感嘆溜息3連打。
城1つが戦車にばけちゃったトコロでノックアウトされたっちゃ。
堀江氏は1984年に新たに書き起こした『矢車剣之助・風魔一族の巻』を単行本化している。今回、古書店で探してもらい、買った。定価の4倍くらいのプレミア値段になってるけど、ま〜、しゃ〜ない。
絵がマンガからゲキガっぽくなり、線は少なめながらシーンの構成と描写が的確でずいぶんに洗練され、迫力増加、これはこれでまた大いに愉しめた。
それらを毎夜に耽溺しつつ、5〜6日ほど前だったか、ウィリアム・シャトナーが宇宙に出たというニュースに接した。
90歳になったカーク船長は、しかし他の乗員と違い、さほど嬉しそうでなかった。それが印象的かつ象徴的だった。
なるほど飛行後の彼のコメントは感動を前面に出したものだったけど、『スタートレック』撮影でのアマタ・カズカズの宇宙冒険を、たとえそれがスタジオ内でワイヤーで吊り下げられたり、CGとの合成映像化であったりしても、長年の堆積としてのそれら“宇宙体験”と、現実のわずか高度60㎞程度での3分間弱の“宇宙体感”の、そのあまりのギャップにいっそ戸惑っているような、浮かない表情だったのが、あるイミ、お・も・し・ろ・かっ・た。
映画の中ではワープ航法でもってはるか恒星の彼方にまで旅した自分と、現実の宇宙体験の狭量な狭間に置かれ、周辺の大騒ぎをよそに、
「まだ、この程度なのかぁ」
と、ホントは、つぶやきたかったのじゃなかろうか。
我が子が初めてヨタヨタながら補助なしで自転車に乗れたのを親が喜んでるのを、乗った当人の方がヤヤ困惑しているような、なんかそんな感じの“カーク船長”だったんで、
「ニンゲン90にしてまだ惑う」
というような一語が浮いて、そのまま風船みたいに宙に昇ってった。
矢車剣之助の活躍と現実との乖離をば愉しんでいる我が方としては、ウィリアム・シャトナーにはいささか気の毒なリアル体験だったかもと、同情しちゃうのだった。
いっそストレート正直に、
「こんなの宇宙体験というには早いぜ、ベイビー」
自画自賛の宇宙船開発者らにハッパをかけて、逆に奮起させるべきが良かったような気がしないでもなかった。