10月の映画よもやま

 

 28日。ルネスホールでの『One Heart Under Music  海野雅威』。

 大勢の皆様にお越しいただいた中、ホールの高い天井に海野氏のピアノがこだました。

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 さぁ。こちらは、これからクラウドファンディングでご支援くださった方々用の特別映像の編集作業……。

 撮影を担った道生ちゃんや殿下やKuroちゃんの労をねぎらいつつ、撮れトレの動画とスチールを慎重に吟味しなきゃいけない。

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 この作業と同時期で自分の講演もある……。

 2つの列車を同時に動かすみたいで、こういう並列は好みじゃないけど、しかたない。エネルギーを均等分散させ、進んじゃお~。

 

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 さてと10月に観た映画。

 

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『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』 メルパ岡山にて

 

 ようやく観た最新作。ダニエル・クレイグ版のファイナル。

 なるほど、クレイグ版の閉じ方としてはこれも確かに手段として有効だったかもだけど……、引退と共に家庭持ちになっちゃうボンドも、悪くはなかったハズ。

 次のボンドを誰が演じるのかといったネクストよりも、愛惜の念が濃くって、見終えるや、ガッカリ・グッタリに近い気分を味わってしまった。

 ボンドに土下座させちゃ~イケネェよ~。

 この映画の作りにブ~ブ~文句つけてる内に、ロシアにジャパンに北朝鮮に中国に米国がからむ危うい関係の北方領土界隈への英国のミサイル攻撃。

 驚くことにその決定がレイフ・ファインズ演じる、首相でも国防大臣でもない部長クラスのM。国家巻き込む騒乱を描く007シリーズが、そのあたりの国際情勢のややこしさをすっ飛ばしちゃ~イケネネェよ~、とイジイジしてる内……、あの結末。

 ま~、そういった意味では心に残ったワケだけど、むろん、心に傷がついたという意味合いで。

 ハン・ソロを失ったコトで『スターウォーズ』のシリーズそのものが精彩をなくし、“祭りの後”の寂しさに堕ちちゃったのと同様、ハッピー・エンドに結びつけられない近頃の風潮って、いけ好かんなぁ。

 ダニエル版は総じてボンドのマゾヒズムが色濃く、それがシリアス味とあいまって1つのボンド像として硬化していた次第ながら、だからこそ、そのファイナルは逆にハッピーに、スカッと爽やかに締めくくってくれればと願ってたワケで……、これでは『スターウォーズ・ローグワン』と同じく、”浄化の後の悲痛”を否応もなく味わわさせられたのと一緒じゃなかろうか。

 まっ、そんな次第ゆえ、エンドロールのルイ・アームストロングの「愛はすべてを越えて」を耳にしつつ、灯りがつくまで身動き出来なかった、わ。

 この007第25作めは、巻頭で使った小道具としての能面の、その狂おしい程の魅惑を、ただの1メートルも越えていない……、と思った、ぜ。

 

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『幕末太陽傅』 1957  amazon prime

 

 日本の映画史では必ず言及される1本。おまけに、構想されていたものの結局は撮影されずで幻となったラスト・シーンにやたらと着目され続けているという、妙なあんばいの映画。

 かつて20年ほど前のことながら、岡山の旭川河川敷で催された劇団・紅テントの唐十郎の芝居でも、そのラスト・シーンで、虚構と現実を結ぶ演出として、唐は『幕末太陽傅』の幻となった未撮影の展開を、そのまま芝居に投入していた。

 芝居終焉と共にテントの一部が開け放たれ、主役の唐十郎が自転車にのっかって、暗い河川敷の彼方へと駆け去っていった。その時に使われた自転車はボクが提供したものだという余談で自慢する気はないけど、『幕末太陽傅』の影響による演出というコトを後年知って、不明を恥じた。ベンキョ~させられた。

 

 居残り佐平次圓生が得意とした古典落語の主役・品川の女郎宿で一文なしで飲み食いした佐平次が店に住み込みで勝手に働き、やがて店の者が頼りにする)役のフランキー堺が圧倒的に素晴らしいが、助演の石原裕次郎はダメ。わけてもラスト近くの小舟の中からフランキーに向けて一言いって笑う石原の演技は最悪……。

 舞台となった品川遊郭の描写は、極めて精緻。室内で女郎さんのみが雪駄(底の厚いやつ)を履いてるあたりとか、二階の男子便所とかの、史実描写がイイ。

 印象に残るシーンとしては、若き二谷英明が階段から転げ落ちるところ、かな……、代役使わず本人が実際に転げ落ちて、役者根性の在処を示してる。

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                    監督の川島雄三

 

 幾つかの落語噺を組み合わせて全体が構成され、基本はコメディだけども、悲喜こもごもの哀切が滲んで秀逸。ラスト近くになって、陽気に振る舞う主人公のフランキーが労咳にかかっていることが明白になり、墓場で一騒動あった後、彼は全力疾走で川沿いの路地を駆け去っていく……。

 監督の川島雄三はその駆け去っていくシーンで、幕末から一気に現在へと飛び越えさせ、フランキーを幕末衣装のまま、撮影時点の現在の品川にまで駆けさせようとした。いみじくも、「No Time To Die - 死ぬ時間はない」を映画ゆえの手法で見せようとしたワケだ。

 けども日活も撮影現場もその意図を了解せず猛反対で、結果、幻と終わった……。

 

 ちなみに、バクマツタイヨウハクではないよ。バクマツタイヨウデン。

 なんで太陽ってか? この1957年当時、石原慎太郎の小説「太陽の季節」の影響で登場した無軌道な若者層があり、けれど一方で1つの風俗文化としてそれを捉える試みもありで、そんなさなかに慎太郎の弟をスターにしちゃった日活としては、タイヨウというネーミングは随分に都合が良かったのだろう。

 実際にはタイトルに関し、“不良”を象徴するコトになるとして、日活社内でスッタモンダがあったようだけど、ま~、そんなこたぁどうでもいい。

 女郎役の左幸子南田洋子の取っ組み合いの大喧嘩も、見所。室内から縁側へ、縁側から転げて庭先での組んず解れつにゃ呆気にとられる。

 当方がいたく感心したのは、映画前半での雪の降らせ方。ひとひらひとひら全てに雪の重みが感じられ、本物? それとも紙製の小道具? 判らないけどビジュアルとして実に素晴らしく映えてた。

 で、映画後半ではそれら雪は家屋の端っこにかき集められ、灰色っぽい山になっているという、さりげない描写にもリアルが充ち、隅々まで気を配って撮ってるのが有りアリ。

 監督の川島は本作を創った6年後に45歳で没して、とても残念なんだけど、39歳でこんな映画を創り上げた才能と度量が太陽みたいに目映い。

 

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帝銀事件 死刑囚』 1963 amazon prime

 

 熊井啓の監督デビュー作。ドキュメンタリーとドラマの絶妙な融合。全編モノクロゆえ、実際の記録映像とドラマ部分映像とがガッチリ組み合ってた。

 銀行員12名が毒殺された帝銀事件は昭和23年に起き、この映画は昭和38年に造られ39年に公開されている。

 登場する新聞社と記者名いがいはすべて実名。ウィキペディアによれば、熊井は宮城留置所まで出向き、死刑が確定した平沢貞通と面会したらしい。

 この映画を観てはじめて、昭和23年当時の日本のカタチを垣間見た。

 銀行の支店はその店長宅が支店となっていて、だから業務の背後には妻もいれば子もいる。彼らも犠牲となる。

 なにより、GHQ占領下にあることを強く意識させられた。

 使われた毒薬(今もって何であったか不明)の、その消息を日本警察では追えなくなり、かつマスコミもその件に触れられない言論統制があったコトを知った……。

 事件の生き残り達の半数以上が別人と証言した画家の平沢が、次第に犯人としての輪郭をもたされていく。それを追いうって、拘留され連日の取り調べで平沢の供述も不安定になる。罪を認めたり、くつがえしたり。

 平沢画伯を犯人とする見解と、そうでないとする見解……、警察内部の対立。

 平沢の家族への世間の冷酷な振る舞い。

 雅号を贈った程の高弟だったというに、横山大観は平沢が弟子だったコトを否定した。(これは映画で描かれない)

 マスコミの傍若無人な振る舞いと、それに相反する記者の正義感ゆえの奔放のせめぎあい。そのジレンマ。

 

 熊井は諸々を丹念に描いて、真実は? を映画的に問いかける。

 ラスト近くで刑務所の金網越しに平沢とその娘が慟哭するシーンがあり、そこのみ、監督の主観が前面に出た創作と思える。だから違和感あり。

 けど、平沢がまったく無実という側に立たず、といって検察側に立っているでなく、ニュートラルな視線に務めようとする。なので有罪か無罪かの結論は、この映画にない。いっそ、「真実は?」を越えて、「真実とは何?」と問う映画になったような感触。

 

 史実の中の平沢貞通は、死刑確定後も無実を訴え続けるが、執行も釈放もないまま39年間獄中におかれ、1987年に医療刑務所に移され95歳で没した。

 ちなみに20回目となる再審請求は2015年に出されているが、審理が引き延ばされたまま今にいたっている。結局は1960年に松本清張がノンフィクション『日本の黒い霧』で描き出した通り、昭和23年から今現在に至っても、この地表にゃダークで見えない霧が残留してるって~次第を再確認という次第、だったかな……。

 

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燃えよ剣 イオンシネマ岡山

 

 原田監督の本作も、コロナ禍で公開延期が続いていたワケで、やっと会えて感慨ひとしお。

 数年前の『関ヶ原』といい、こたびといい、岡田准一、いいなぁ。

 鈴木亮平、いいなぁ。

 沖田総司を演じた山田涼介、松平容保尾上右近、いいなぁ。

 いいのが揃ってた。

 岡田演じるガサツ野郎が刀に身を託して成長していく様子が頼もしくもあり、されど種々の選択肢を無くしに無くして、ガサツから洗練へのせっかくのグローイング・アップも、その果てには自滅しかないと悟っているフシの描写にはうたれた。

 それは尾上右近演じる会津の殿さん松平容保(かたもり)とて同様。

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 尾上は悲劇の会津藩主を実にうまく演じ、そのラストシーン、官軍に懐の筒は何かと問われ、「天皇より個人的に頂戴したものだ」という意味の事をつぶやくところは、この映画のハイライトの1つと感じ、ウルウルさせられた。

 出身出自を同じくする近藤・土方・沖田の友情が友愛に変わっていく辺りもウルウル。鈴木亮平が演じたカラッとした陽気みたいなものが良くって、こんな近藤勇は観たコトがなく、やたらポイント高かりし。

 

 原田作品としては、いっそオーソドックスな造り。淡々と史実をなぞって進む(柴咲コウ演じるお雪は司馬遼太郎の創作だけど)。役者陣も1人だけ際立つような演技がなく、これもまた淡々、しかしたっぷり個々人の個性有り在り……、というのは原田演出の旨味。

 伊藤演じる芹沢を暗殺するシーンの滑稽や、池田屋事件での新撰組VS尊皇攘夷派、お互い息も切れ切れながらの押しくらまんじゅうの壮絶は、これまた過去に観たことのない凄みがあって、カッコ良く刀がきらめくわけでないリアルに眼もすくんだ。

 そのうえで過剰な演出加えず、過激と苛烈であった連中とその周辺を逆に静観する姿勢に徹されて、ポイント高し。変に感情移入させて泣かそうとかいうチープな気配なしが、なによりグッドグッド。

 たまさか自分の次の講演で明治の「写真」に関して話す予定ゆえ、劇中2回、その写真にまつわるシーンがあって、

「おっ」

 注視したりも、した。近藤勇オシロイ塗られて写真撮影、というシーンはニヤリ笑った。

 高梁や津山のロケ地シーンも含めて、もう1回映画館で観てもよいな、とも思ってしまった。

 

 しかし、イオンシネマは映画がはじまるまでの予告の見せ方がクド過ぎだ。

 こたびは12時35分からのチケット入場ながら、12時35分から12時55分まで、20分もエンエン予告だ……。

 その20分のおかげで映画本編の最後の20分あたり、トイレ我慢を強いられたワケで、ヒンニョ~ぎみなシニア・シチズンは、悶絶の苦痛。予告なんて、せいぜい2~3本でいい。