河原亭 + 蕎麦

 

 柔道家と宇甘川沿いの県道・高梁御津線を駆け、御津紙工(みつ・しとり)の河原亭へ行く。

 市内から離れたのどかな山間のそこが、なぜ北区に入るのか、広域過ぎるんじゃなかろうかその区分……、と訝しみつつも、周辺静かで心地良い。

 江戸時代のでっかい庄屋たる河原亭の佇まい良し。

 

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 かつて昔、束ねたお百姓たちにどう河原家の代々当主が接していたかは知るよしもないけど、だいたい庄屋というのは一言でくくれない性質を帯びる。

 当時の身分制度にあっては百姓に属しつつも、名主年寄という位をもって支配階級の側にいる。

 地域で大きな顔ができ、その仕事も自宅内でおこない、かつ世襲するという次第もあって、住まいが豪奢になるのも、ま~、判らないではない。あちゃらこちゃらの古刹同様、家屋の堅牢さは見事としか云いようがない。

 

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 そのうえ、高台に河原亭はあるから見晴らしが良くって、ジャブジャブと雨が降る日なんかは、広い縁側界隈から”下界”をば眺め、田んぼでズブ濡れで働いている近隣のお百姓を眼にいれつつ、ゆったり煙管を吸ってる大庄屋さんの悠々を想像でき、ほのかな羨ましさをおぼえないワケでもない。

 

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 長屋門 ↑。ここの構えはけっこう大きいから、たぶん江戸時代にゃ、門番をかねた使用人を住まわせていたろう。

 L字型に構築されたこの長屋は母屋側の内側には漆喰を使ってるけど、石垣の上の外側は板張り。百姓身分では外を漆喰で覆えない。そんなやらしいキマリが江戸時代にはあったから、かつて当時は、その仕様で、当家の格式が判るというようなモンだった。

(現在は白の本漆喰で塗られているけど、江戸期では藁の成分が多くて黄ばんだ色になる土佐漆喰で’内側は造られていたはず。母屋の裏側の壁面にその片鱗が窺える)

 鎖国して国を閉じちゃって以後、幕府の政治エネルギーはひたすら身分階級の分別に向かい、統治の根幹とした。それがこんな地方の山中の庄屋の家屋にまで痕跡として残ってる。

 

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 長屋門からの外景色↑。勾配による景観のパノラマ的展開が見事。ここに住まえば日々、

「この景色ぜんぶ俺のもの」

 と、優越気分が湧いて来るだろうとも思えた……。

 

 けど一方で庄屋は、上司たる郡代(郡奉行をいう - その下には郷目付(ごうめつけ)、代官、手代、といった事務官僚がいて、庄屋はその下に置かれ、いわば現場監督として位置される。郡代は天神山の郡会所にいる。郡会所は明治になって医学校になり、さらに亜公園となる)の前では、絹の羽織を複数枚持ってるのだけど、けっして身に着けず、郡会所の役人たちへの盆暮れの付け届け怠らず、平身低頭、いわばA面とB面の顔を常にもたざるを得ない立場であって、その鬱屈も、チビリとは感じるのだった。

 まして河原家は、江戸時代以前は地方豪族の有能な家臣であったらしく、それなりの勢力を持っていたはずで、それが江戸時代には戦国の世はすでに昔と、身分さげられ、かろうじて庄屋という位を保ちえたというあたりに、代々の労苦がしのばれる。

 長屋の半分ほどを改装して設けられた資料館の展示物を眺めるに、養蚕の道具が一式置かれてた。

 庄屋ながら、その長屋内で蚕を育て、糸も紡いでいたのだろう。

 米の生産数がおちても年貢は年貢として納めなきゃいけない。その場合の補助としての生糸だったろうか……、物証として、同家の苦労が垣間見える。

 

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 母屋は天保10年に建ち(建て替えか?)、2階建て離れ屋敷は明治に造られたとか。母屋と離れの奥に倉が4つある。

 倉と倉の間に屋根のある大きな井戸もあって、今現在も水が貯まってた。高台の上の井戸だから、かなり深いはず……。

 

 紙工シトリと読めるヒトは少ない。わたしだって読めない。お江戸の時代、このあたりは紙を加工(主として鼻紙)する農家が多かったそうな。それでお江戸の昔っから、このあたりを紙工という。

 宇甘川の冷たい水が役立ったわけで、庄屋はそんな半農半紙(そんな語はないけど)の地域民を束ねる役を担っていた。同家の倉は年貢米やら生産された鼻紙を集めて保管する場所だったのだろう。

 

 河原亭は今は地域の文化財として大事にされ、無料で見学出来るし、蕎麦も食べられる。

 ただし蕎麦は数量限定、それも20食程度(?)という商売っけのなさ。

 それがマルなのかペケなのだかはよくは判らないけど、金儲けじゃない範疇での来訪者への有料サービスと思えば、ゆるやかにマルと判断してもいいか……。

 だから、蕎麦喰いを目的にここを訪ねると、時に、

「すんません、品切れでございます」

 ガックリを味わうというペケも並列する。

 (訪ねたさいも、数組のカップルやグループが母屋内に座して蕎麦をいただいてた)

 幸いかな、今回はここで食べることを予定しない。

 

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 蕎麦の厨房横にバラン(葉蘭)が植わってた。これウチにも欲しいな。スーパーで買った680円の鮨六貫の安物パックをこの葉にのせりゃ~、1050円くらいな鮨に見えはしないか、見栄はれる……。

 

 見学終え、さらに北上。

 吉備中央町の品野屋。道の駅・円城の背後にポツンとある蕎麦屋

 

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 品野屋は実は旧店名。今は「吉備の国野菜村」という農業生産法人が運営しているらしい。それで大きな暖簾というかノボリで、めだつ店名看板をチョイっと隠してる。

 ま~、経営が誰であれ、運営者を食べたいワケじゃない。蕎麦が卓上に登るなら文句はない。

 そも当方、蕎麦の味に通じてるワケでもなく、この日たまさか、蕎麦を食べたいモードのスイッチがオンになってるだけのこと。

 

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 ちゅ~ワケで、味わった。

 柔道家は500gのメガ盛りを3分42秒でたいらげ、ビール呑みつつノタノタ喰らうコチラをしみじみ眺めてた。

 こういうバヤイは、いそがない。鷲掴んだのをスパスパッとすするでなく、いっそユルユル、2~3本をチュルルっと品良く運んで、同行者を焦らすのがいい。旨味が増す。

 更科の粘度、藪の硬いコシに風味、ともに歯ごたえよく、美味かった。

 イチバンによろしかろうと思うのは、まずは燗酒でおなかを熱くさせ、それからスパパパっ、だと思うけど、壁のメニューに日本酒がみあたらなかった。 

 

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 道の駅・円城では白菜を山ほど売ってた。買われた白菜は概ね、鍋に投入されるんだろう。キムチ鍋とかに。

 残念、たまたま家に在庫があるんで買わなかったけど、この白菜の行列を写真におさめてるオジサンが複数いた。

 珍しいか?

 うん、たぶん……。

 自分も準じた。

 

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