太陽の塔

 

 自然がしでかした苛烈。ヒトのしわざでの非道。……などなどで我々は泣いたり笑ったりの連続なのじゃ~あるけど、そういった諸々な事態に直面して、ヒトが造った代物として、対抗あるいは拮抗できるチカラをもったモノって有るのか?

 多量のモノを創り出し、食(は)み消費しているこの時代にあって、その中、メチャな事象に向かって、負けず、パワフルなモノとして不動、屹立しているモノは、有るのか?

 

 ま~、そんなことを考えてみますに、最初にアタマに浮くのは、弥勒像とか阿弥陀像といった仏像だったけど……、しかし、仏像はヒトの何事かを救済しようとはしているようじゃ~あるけど、どうも違う。

 ある種のチカラは有るけど、あくまでも専門店的で、何でも買います売ります的なパワーは、ない。大きさでは充分ながら奈良の大仏もしかり。

 

 

 コルコバードのキリスト像も候補にあげてみたけど、リオデジャネイロ市街を見下ろすデカサはあるし、「救済しましょうぞ」のしっかりした意志も見えるけど、けどやはり「宗教」という枠内での『祈り』に集中してるんで、それが足枷、慈悲的ではあってもパワフルというニュアンスじゃ~ない。

 建造物としてはパリのエッフェル塔も悪くないけど、いっさい受け入れというホドでもない。

 

 そうやって候補をおとしていくと、1つだけ残るものがある。

 ご存じの、太陽の塔

 これが現状で唯一、拮抗のチカラを持ったカタチなのじゃ~なかろうか……、とそう思う。

 

 

 何よりもまず、何だかよく判らん、そのカタチがよい。

 美形か醜形かの区別がつかず、そも、奈良の大仏リオデジャネイロの山頂のそれと違い、「お救いしましょう」というような慈悲的意志は見えない。

 そもそも、太陽の塔に賽銭箱がない。浄財を頂きましょうという気がない。ま~、もっとも、近年に地下のごく一部が再整備され、塔内にまた入れるようになって「入館料」というのが発生してはいるけど、それはかまわんかまわん、当然の受益だ。

 

 

 

 太陽の塔を一瞥するに、まず、左右の腕(?)の反りに眼がむかう。

 キリスト像などとは違い、後ろにヤヤ反って、受け入れようとしてるワケでなく、いっそ、拒んでいるようにも見える。

 が、また同時に、その反りっかえしが逆に、

「え~い面倒だ、オレにまかせろ」

 というようにも……、見える。

 いや、もちろん逆に、

「オレにすがるな」

 やはり、拒絶しているのかも知れずで……、どうとでもとれるのがイイし、なにより、その姿勢ゆえの“堂々っぷり”がイイ。

 

 

 という次第で、現状で入手できる最大でイチバンに出来良い縮小レプリカを入手し、見上げてるんだった。

 そ~、太陽の塔は見上げるもんで、見下ろしちゃ~いけない。

 

 

 1970年、中3から高1になった春、大阪万国博覧会ではじめて直にこれに接したさいは、左右の赤いラインにウルトラマンを想起したもんだった。

 むろん岡本太郎の念頭にウルトラマンがあろうハズがない。相似というもんだ。

 岡本は、縄文土器の炎の躍動を“転写”して、日本人の原型の中にあったであろう火のチカラへの憧憬とそこから生じた美意識的視線をうねらせたのだろう。ヒトの中の火に向けての信仰めいた気分の萌芽をこの2本の赤いラインに象徴させたのだろう。

 だからといって、この塔を信仰の対象にしようなどとは、岡本は思っちゃ~いない。

 背面に死を想起する黒い太陽を置いたことで“生と死”を含み入れたコトはまちがいないけど、祈願成就的な信仰方向とは違う。

 

 

 だから、「お救いしましょう」、「救ってチョ〜ライ」といった仏像めいた擬人化視線は、ホントはよろしくない。

 祝祭空間であったお祭り広場との位置的な関係を思えば、トーテムポールの巨大なモノと思った方がいいのかも知れず、設計創作にあたっての主語はお祭り広場であったはずで、太陽の塔はそれに付随のモノという関連性の中でホントは語るべきカタチであったろう……。

 

    大屋根とお祭り広場と塔の配置をIllustratorで描くとこうなる。右の大きな空間がお祭り広場。

 

 しかし何十年が経過し、ユルリと眺め直すと、既にこの塔は、岡本太郎という作者名を越え、独り立っているようにも見える。事実その通り、大屋根もお祭り広場も今はないワケじゃあるが、そういうコトではなくって、存在としての光量が日増しに増加し、生みの親から距離を置いて、

「ぁあ、たしかに父はタローですが、それが何か?」

 しがらみとしての属性からも離れ、既成の枠からも外れ、独立独歩した存在〔物体)に見える。その背景に神様的思惑を背負っていないのが何よりイイ。

 だから、強い。

 逞しいというニュアンスではなく、存在の強さとして、今これに匹敵するモノってのは、他に、ないよう思う。

 震災の不幸も不当極まる侵攻もコロナも……、なにもかもこの塔の前では「過ぎてく事象」でしかない……、といった感触をもつ。

 

 

 以上、観念的見解じゃ~あるけど、呑み込みと拒絶がこの塔のカタチでは常態であるよう感じられる。上から目線でもなく、下からのそれでもなく、いわばヒトを含めた生命全体の“根源的な踏ん張り”みたいなものの抽象化……。

 

    

太陽の塔の原型めいたカタチを岡本太郎は既に1956年の映画『宇宙人東京に現る』で描いてる。右は監督の島耕二。この映画に出て来る飲み屋「宇宙軒」についてはコチラ参照。

 

 けれどしかし、今の太陽の塔が“健全なカタチ”かといえば、そうでない。

 ま~、長くなるからそれは今度に。^_^;