太陽の塔についての2回目。
丹下健三のあの大屋根を取り壊してしまったのは、つくづく残念なことだった。
それがあったゆえに、太陽の塔は見えるようで見えず、けどまた、見えないようで見えてもいるという、もどかしいようなヴィジュアルに置かれ、それがすこぶる効果的で、塔の圧巻を増させ、圧倒を増幅していた……。
太陽の塔は、大屋根とその下でのお祭広場を含む空間そのものとのセットであるべきで、今はなんだか孤軍、スッ裸にされ路頭に立たされている感が、濃い。メチャ、濃ゆい。
塔が自意識を持ち、声を出せるのなら、
「とにもかくにも、恥ずかしい」
羞恥に恥辱を混ぜマゼしたような悲哀をつぶやくような気がしていけない。
建って既に52年が経ち、このスッポンポン状態しか知らない方々の方がダントツに多いから、スッポンポンがアタリマエで、それ以前の光景なんて知ったこっちゃないわい……、というのが普通っぽくなってしまってるのを、とても残念に思う。
世代的立ち位置も意識せざるを得ないワケだけど、チョイっと過去の姿を顧みてみよう。
大屋根に近づき塔のそばへ行くには、まず、なが~い階段を登らないといけなかった。
登りきって塔の方に歩むと、塔はすり鉢状の大きな凹みの中にあるのが判る。
2階建ての民家がすっぽり入いちゃう深さの、すり鉢構造。
すり鉢の斜面は階段状になっていて、そこにヒトが座れるようになっている。フラットな大地に塔が立っているワケじゃ~ない。
そのすり鉢の下には地下空間があって、地底の太陽を中心とした展示ゾーンとなる。(現在リニューアルされて公開されている地下スペースは当時の1/3に満たない縮小規模)
すり鉢の所に寄っても太陽の塔は全体が見えるワケじゃない。両腕の先は大屋根の中にあり、やはり、見えそうで見えない。
大屋根と塔は一体化されているワケだ。
この一体化の妙味、醍醐味は、丹下の未来的メタボリズム建築というカタチと、岡本の反未来的カタチの「衝突」がもたらす軋轢の火花にある。
相容れない2つのカタチが合体しているコトで、いわば物質と反物質の衝突、粒子と反粒子のぶつかりで巨大なエネルギーが生じて新たな粒子が生じるみたいに、新たな流れとしての星の再構成めいた大転換が起きるぞ〜、とモノ申しているのが太陽の塔で、それが何よりも魅力だった。
後年に岡本太郎は、「ゲ〜ジュツは爆発だぁ」とコトあれば云ってたけど、要は衝突エネルギーがアートになくっちゃ〜つまらんと彼流なコトバで申していたワケだ。
当時、彼は、「人類の進歩と調和」というテーマに真っ向から疑義を呈し、ハッキリそれを公言してはばからなかった。
EXPO70がスゴイところは、そんな反博精神をも含み入れての博覧会だったという事につきる。
昨今の全体主義的流れではなく、支流でも汚水でも、大河みたいに、ナンボでもナンでも受け入れまっせぇ、みたいな柔軟に富んでいたところ、だな……。
硬直した行政的なイベントじゃなく、前例ないんでソレはいかがなものかみたいな官僚的一律じゃなく、いっそ、そういう制約いっさいが取っ払われた希有なイベントだったと、顧みると、今はそこが目映っくて仕方ない。
1945年の敗戦で否応もなく直面したどん底から這い出た、その復興の証しの頂点としてのイベントが1970年大阪万国博覧会だった……、といっても言い過ぎでないよう思うし、そうであるゆえの、りきんでガムシャラでもあった当時の空気、アレもコレもが1つの良い意味での方向に向けてバッタバタバタと羽ばたいたと、今はそう顧みられる。
会期中のそのお祭広場(正しくはすぐソバの水上ステージ)で、コンサートがあり、そこで唱われたのが「戦争を知らない子供たち」という曲で、北山修の甘い平和主義な歌詞に、当時も今も疑問というか、「そんなんでイイのかぁ~」な懐疑を持ってはいるけど、ま~、それはそれとして、当時ベトナム戦争の渦中でもあって、そんな反戦歌が反戦歌として万国博覧会というワールドワイドでグローバルなイベントの中で堂々と大合唱されたトコロが、今はもう出来ない性質をたっぷり帯電させた1970年大阪万国博覧会という、希有に価いするイベントなのだった。
横道にそれたけど、さて、塔の後ろには、お祭り広場の大空間が拡がっている。「戦争を知らない子供たち」もこの広場に音として響いたワケだけど……、その広場を塔の背面の黒い太陽が見下ろしているという構造が、驚くべき凄みだった。
明るい色彩の太陽でなく黄泉のクニを示唆するような黒色の太陽が、にぎやかイベントたる諸々の“愉しい催事”が行われる広場を見守っているという戦慄すべきな配置には、「人類の進歩と調和」というテーマを薄っぺらい発想として苦言した岡本らしい「反博」の意志がドデ~ンと座ってた。
むろん、この「反博」は博覧会反対というような意味じゃなく、明快な皮肉ぶくみのアイロニー。岡本は逆算的に「進歩と調和」って何だろうを懸命に自問したはずで、その答えをカタチにしたのが、今に残る太陽の塔だった。
太陽の塔の視線の先には、丹下健三たち設計チームが考案したシンボル・タワー(EXPO TOWER。EXPO70全体を象徴する塔。太陽の塔より背が高い)があって、それは1970年当時の先鋭的デザイン、未来的な都市の一部を見るようなカタチではあったけど、太陽の塔(これはあくまでも大屋根とその下のお祭り広場を含めての「人類の進歩と調和」という博覧会テーマを象徴するものだった)は、それと真っ向から対峙し、
「それでエエのんかい?」
その進歩性を帯びたシンボル・タワーのカタチに刃向かうという関係にも、置かれてた。
対峙。
衝突。
その峻烈を含んだ上での合体……。それが大屋根と塔と広場空間の、緊張感をはらんだ凄みであり妙味なのだった。
丹下健三を中心に磯崎新や上田篤など13名の建築家、さらに小松左京や粟津潔たちによってシンボルゾーンは設計され、そこに岡本の太陽の塔が加わる……。右の塔がシンボル・タワー。名の通り、これがEXPO70の顔をなすモノであったのだけど、フタを開けるや、太陽の塔にヒトの視線は集中した……。
岡本は太陽の塔以前の10年前、1958年に既に下記の言葉を放っている。
建築と芸術の本質的な協力は、相互の異質の徹底的な自己主張によるディスカッション、問題のぶつけ合いによって、新しい次元を開くことだ。建築にほとんど必要的にそなわった合理性に対し、人間本来の混沌、非合理性を強烈につきつける。それによってかえって本質的な生活空間、居住性が打ち出される。
けれど今はもう、その大屋根がない。お祭広場もなく、シンボル・タワーもない。
本来、この塔が持っていた主目的は剥がれ、そのエネルギーの方向が失われているワケなのだ。
素っ裸で立たされているというのは、そういう意味でた。
そこが鎌倉大仏とはまるで違うワケで、大屋根を奪われたコトで逆に太陽の塔は、その魅力の大半を失ったと云ってイイ。
塔だけを保存するのでなく、大屋根を含むお祭り広場そのものを残すべきだったのに……、そうしなかったのが大きなペケ。戦後日本のイビツを象徴するような、これはアンバランスな顛末でもあって、今の日本の姿をこれまた象徴する“ダメな事象”だった。
1970年当時まだモノゴコロついていないヒトや、それ以後に生まれた方々にとって、太陽の塔は今あるように、ポツネンと突っ立っているモノとして認識され、それに基づいての塔への思いやら評価なんだろうけど……、あえて云うけど、この姿はやはり、哀れだ。
塔は屹立し、何事にも揺らがない堂々の姿態ではあるけれど、アンプのないエレキギターを持って駅前に立たされてる、しかも丸裸で……、みたいな恥辱めいた感触が、拭えないのだった。
そこでま~、見えるようで見えず、見えないようで見えてもいるというバランスを模型で再現してみた。
およそ150m×350mというチョ~巨大だった大屋根全部を造るワケにもいかんので、塔のごく周辺、すり鉢構造とその地階を暗示すべくなカタチで、ちょめちょめ、工作してみた。
海洋堂が製造したこの小スケール模型の、台座はヨロシクない。岡本がもっとも嫌った「民芸的」な匂いが強い。岡本自身の筆跡をうつしたものだけど、こういう風に使っちゃ~いけない。
これでは園児の胸にくっつけられた名札と変わらない。なので、この台座はクビにする。
実際は、大屋根の丸穴の中心に塔があったワケじゃない。(実物の円の直径は80m)
ここも魅力のツボで、幾何的な円と塔は正比関係に置かれず、離れているようで離れていないフラフープの真円と身体の関係のようなアンバイだ。
その再現は断念。円柱形ケースのサイズと模型サイズの制約ゆえに、穴と塔の位置がまるで違うんだけど、ま~、しかたない。見え隠れする太陽の塔、というヴィジュアルを模型化したに過ぎない。
ま~、ついでゆえ、地下空間の地底の太陽もチラリと見えるよう、“たのしく”工作した。
ぁぁぁ、でも工作を終えても、まだ、ぜんぜん、満足出来んなぁ~。当時を模型的に幻視懐古するには足りない……。
こういう不満足な燃焼不足を代弁するのは、これかなぁ。
I can't get no satisfaction
'Cause I try and I try and I try and I try
I can't get no, I can't get no
万国博覧会の5年前、1965年に登場のこの曲もまた、太陽の塔と同じく経年にめげず、今もってハイパワーで鬱屈と対峙してる。