つくもがみ

 

 ガレージに大型粗大ゴミをまとめ、市の依頼を受けた業者さんが引き取りに来るのを、待つ。

 背丈が高い書棚は運び出すのが面倒なので事前に分解している。

 まだまだ使えるけれど、そぐわないモノ達……

 

 インドアからアウトドアへと持ち出して有料回収券を貼ってるうち、「付喪神」を思い出した。

 つくもがみ、と読む。

 平安時代から室町時代にかけて登場した妖怪たち。

 立春のすす払いでニンゲンに捨てられた道具達が妖怪に変じ、一同集結して夜中に行進したりする。「百鬼夜行絵巻」なんぞでお馴染みだ。

 個体としてではなく、古道具が変じたものの総称が「つくもがみ」。

 

             捨てられたモノ達がやがて化ける……(付喪神繪より)

 

 江戸時代の写本『付喪神記』では、

「多年、家々の家具となりて、奉公の忠誠を尽くしたるに、させる恩賞こそなからめ、あまつさえ路頭に捨ておきて、牛馬の蹄にかかること、恨みの中の恨みにあらずや。詮ずるところ、いかにもして妖物となりて、各々、仇を報じ給え」

 と、ゴミにされた道具の誰かがアジテーションする。

 それを契機に、鎧やら兜、弓や太刀などの武具や、琵琶、琴、笛、太鼓、鏡、火鉢、茶碗、箪笥、などなど、捨てられた道具たちが一斉決起し、奇怪なスガタになって夜の路地を練り歩くんだ……。

            捨てられた数珠が妖怪化している図(付喪神繪より)

 平安時代鎌倉時代には、その行列に遭遇すると死んじゃうとか……、かなり真摯にマジに怖れられた存在ながら、室町時代が深まるに連れ、恐怖度は薄れ、いっそ滑稽なもののように描かれる。

 出没傾向が著しく高くなるのは室町時代ながら、その室町時代の途中あたりから今度は出没頻度もさがる。

 

   

              子供用の騎馬玩具や急須なんぞが化けちゃってる

 

 鎌倉時代にはまだまだ未成熟だった商品経済が、室町時代にはグィ~ンと進み、新しい道具が次々に出てくるようになる。

 そうなると、「新」が「旧」を駆逐するようなアンバイとなり、“古道具”という単語も定着するようになる。

 ニンゲンの生活変化が起きているワケだ。

 無論に下克上の時代ゆえ政治的に安定しているワケもないのだけど、モノ造りの生産性と流通の拡大が、けっきょくは、道具にも魂的なものがあるという観念を薄れさせて、妖怪の入る隙を埋めてったぁ~ワケだ。

 室町時代が日本のルネッサンス期と云われるのは、それまでの、霊的モノノケに怯え、それが生活の規範根底にあった「旧感覚」から「新規感覚」への移行ゆえだろう……。

 この新感覚の跋扈ゆえに、室町時代半ば以降に描かれた「百鬼夜行」の絵では、付喪神と化した古道具たちの行進は夜明け前のいっときに限られ、いまどきのハロウィーンの若者みたいに一晩中騒乱はしないのだった。

 恨み晴らしの唯一のメッセージ的行為である行列行進も時間限定に追いこくられ、存在アピールの幅をも狭まれて、付喪神はいわばニンゲンのコントロール下、手ならずけられた弱き存在に落ちてしまうワケだ……。

 顧みると、ちょいっと気の毒じゃ~、ある。

 

 我が宅から出した粗大ゴミも、むろん妖怪にはならないでしょう。

 けども、チビッとは……、

「捨てて申し訳ないっす~」

 こたび廃棄の諸々に向けて詫びるような感触も、なくはないのだ。

 モノは大切にする方ではあるし、さっこん流行りの断捨離にも諸手挙げて賛同もしないけど、我が生活にそぐわないモノモノと暮らすワケにもいかんので、これだけはま~、しかたない流れ……。

 モノは怨嗟の声をあげるでなく、まして妖怪に変化するコトも令和時代の今はなく、本の中の「過去形の文芸存在」として絶滅危惧種のように生息しているのが、その付喪神なのだった。