まったくの偶然じゃ~あったけど、高橋幸宏の訃報前夜、『マッドメン』を久々に読み返してたんだ。
諸星大二郎の作品。
ごぞんじ、YMOの優れた1曲「マッドメン」が産まれるキッカケとなったもの。作曲した細野晴臣に強いインパクトをあたえたコミックス。
およそ我らに馴染みないニューギニアの未開の地に生息するヒトと、この日本のヒトとを、怒濤の想像力でもってリンクさせて諸星流ワールドにいざなった作品。
結尾に登場する地底世界での死生観やら宗教観などなど、ジュール・ヴェルヌでも描けなかった深淵と拡がりが開陳されて、“ものがたり”の醍醐味をこれでもかぁ~と味わえる。
久々にページをめくり、一気に読み耽り、
……ガチョウが空を飛んでらぁ、あれ、よくみるとギター抱えてるぜ、うん? ガチョウじゃないぜヒョットして始祖鳥? ぁ、ギター鳴ってる。津軽じょんがら節の早弾きじゃ~ん!……
みたいな、どこへ連れていかれるのか、どう連鎖するのか、皆目わからん展開の醍醐味を堪能するんだった。
細野晴臣もこの漫画の中にこだます、乾燥したコンクリート的音階ではない土着的呪術的空気の凄みに、強く影響されたらしいけど、細野さんのその感受の鋭敏さ、その空気を自身の曲として、しかもエレクトロニクスに編みなおすパワーにもあらためて感心して、再読しながら大いに頷きもしたんだけど、その翌日の高橋幸宏の訃報だ……。
一転、うなだれ、
「ぁぁあ、ライディ~ン……」
ガックリなのだった。
先の年末に城下の某ダイニングバーで、
「坂本さんもさるコトながら、幸宏さんもよろしくないんでは……」
というようなハナシをママさまとしていたがゆえ、加藤和彦やジョン・レノンの時ほどの酷烈な衝撃はなかったけど、近しく接していた好みの本幹をなくした喪失は、でかい。
彼と死とを、まだ直線で結べない。
加藤和彦と彼を初めてナマで観たのは天王寺の野外音楽堂だったから学生の頃で、次いで接したのは神戸三ノ宮でのコンサートで、そのおりは、前座に当時まだ無名だったキャロルが登壇し、どえらい勢いで場をさらい、アンコールの拍手と嬌声&歓声が鳴り止まず、やがて、アンコールに応じないことへの怒りめいたエネルギーにそれが変じ、不穏の空気が充満したその場がどう収束するのかとドキドキしてたら、しばしたってアナウンスもなにもないまま段幕があがり、同時に高橋の、
ダダッダダ、ダダァ!
強靱なドラムでいきおい「黒船」の巻頭部が奏でられ、高中正義の、
タッ タッタ~! タラタッタッタァ~!
とギター・ソロが追従して、矢沢永吉達キャロルのロックンロール熱狂を違うベクトルに向けることに成功させて……、以後、Sadistic Mika Bandは我が輩の中では大きな大きなバンドとして育っていって今に至るけど、その高橋幸宏がいなくなったワケだ。
『マッドメン』は現状で幾つかのバージョンが市販され、かたや2冊、かたや1冊という製本だったりで、どれがヨロシイかといえば、たぶん秋田書店の1冊で完結のものだろう。ちくま文庫からも同じのが出てるけどサイズがダメ。
(漫画は文庫版じゃ~イケナイ)
2冊に分けた版(これも秋田書店)はエピソードの羅列がヘンテコで、そうでなくともややこしい物語展開をいっそうややこしくしているような気がしないではないが、ともあれ諸星大二郎作品の死生観を味わった翌日での訃報……。
得体知れない感情がフイに鎌首もたげて我が方を直撃しもして、ただただ、高橋幸宏の逝去を悼むんだった。
ちなみに、ムッシュかまやつのアルバム『The Spiders Cover’s』5曲めの「ノー・ノー・ボーイ」での高橋幸宏の声を、ボクはとても愛おしく思う。
不思議な声だ。
その不思議は、Sadistic Mika Bandの最初のアルバムの巻頭、「墨絵の国へ」の彼の語りの部分で既に萌芽しているんだけど、慄えるような声音とそうでない普通の声音とが一声の中に同列同時にあって、いわば1人で2つの声を出しているようなアンバイが何ともいえず快感で……、好きなのだ。
彼のアルバム『A Day In The Next Life』の2曲め「震える惑星(わくせい)」は時に繰り返し聴いてたりもしたけど、その声の特性は不偏。
没しはしたが……、我が幸宏のドラムと声は我が耳の中にこだまし、我が方の、乾燥ぎみな身や心にこの先も、潤いをあたえ続けてくれるだろう。名の通りに、幸大いなる宏ろがりだ。
感謝の念をわかせつつも、あえてまだ手はあわすまいか。
無量大数の思い出がまだいっぱい活きている。