4日前の朝4時。真東の低い位置に下弦の月。
いわゆる「有明の月」。
なかなか良い感じゆえ、しばし眺める。稲垣足穂云うところのニッケルメッキのお月さん。
なんだかよくワカラン写真になったけど……中央、低いところに有明の月
宵の間は 都のそらにすみぬらむ 心つくしの有明の月
と、今になっても意味がまっすぐには判りづらい歌を詠んでいるけど、ま~、京の都と同じ下弦の月が太宰府でも見られ、明るくなってもしばし見られるその“有明の月”と、太宰府近郊(そこそこの距離はあれど)の有明の海とをかぶせての、京都との距離の遠大ゆえの寂しい面持ちを漢詩にしたんだろう。左遷の怨みと口惜しさと、さらにはもはやどうしようもない身の上の諦観のただ中に、微かな慰安として上空の月に心情を委ねて、鬱屈を彎曲に表現したのだろう。
当方はそんな境地じゃ~ないんで、良い眺めとして、しばしボ~っと、みつめてた。
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何年ぶりかしら?
久々に「みたき園」に出向く。
八頭郡智頭町、鳥取の山奥中の山奥。
雪深い場所ゆえ冬場は営業せず、毎年4月1日より秋の終わりまで、予約者のみに対応の山菜料理の店。その4月中に出向けば、日陰にまだ雪の残滓が見られるという場所。
ここ3年はコロナ禍で苦労を強いられたようだけど、こたび復活。
店というのは絶妙で、なるほど店じゃ~あるけどロケーションが圧倒的。
“園”というのがまったく適語。滝と渓流に沿った場所に食事席を点在させた秘境の園、ちょっとした異界。
異界というのは語弊ありだけど、我が日常にはない空間という意味での“異界”。
木漏れ日、緑の樹木、石、苔、鳥の声、落差ある滝、渓流の音……。その自然の中に、隠れ里めく置かれた徹底した和空間の園。
余計なものはいっさいない。
庵の1つ。類した棟が広い地所に幾つも置かれている
4月に届いた営業再開案内の絵はがきにも余計をいれない意思と素朴が沁みていて、イイ感じだった。コロナでウンヌンとかいう文言すら入れない清さも、イイ。
新緑の5月半ばというのに、みたき園は微かに肌寒い。
囲炉裏はあれど、空調機なんぞはない。
その冷んやり空気がたまらなく良く、山菜膳の味わいをいっそう引き締める。浸透されるままに眼も口も肌もが喜悦する。
この場所を教えてくれたのは、マ~チャン。
毎年のように以後、彼に伴われ、訪ねたもんだ。
マ~チャンが故人となって久しい。それで食事しつつコッソリ偲んだりもした。
彼の飄々とした風情と、みたき園の風流とが合致して溶けあい、良き思い出と現在の自分もが溶け合った。
あいかわらず、園の入口には放し飼いの鶏(ちゃぼ)たちがいて、コココッコ、地面をついばんでいる。
同行は高知ツア~でお馴染みの良き仲間4名。運転せずともよいから、こたびもビールでノド潤す。
でも、燗酒も吞めばよかったなぁ……、とアトで惜しむ。
みたき園に音楽は不要。まったく不要。滝と渓流のエンドレスなサウンドこそが要め。むろんに園もそのコトを重々に承知。スピーカーのスの字もない。
女将が挨拶に来る。
数年ぶりに見る女将の白髪と作務衣姿のカッコ良さに眼が細〜くなる。
コロナ禍での数年、営業短縮も強いられ、宏大な地所の維持管理やらやら、きっとご苦労は膨大だったろう思うが、ともあれ、同園手作りのコンニャク、山菜味噌やらやらやら、この場でしか堪能できない性質の滋味と、女将の健在が、嬉しくもあり、有り難くも感じた。
渓流沿いの庵の1つ
メニューにないジビエのスモークした鹿とキジも味わえた。
キジは初めて口にした。
嗚呼、良き日かな。そう呟いてよい1日。
みたき園をあとにして鳥取港に向かったが、途中、智頭の旧宿場町の古い酒蔵に寄る。
以前にここを訪ねた時はどしゃ降りの雨だったのを思い出しつつ、辛口の燗酒に適したのを求め、買う。
子供の頃には、一升瓶を見るたび、永遠にオチャケが入っているようなボリュームを感じたもんだけど、今となっては……、3晩ほどでカラになっちまうボトルなワケで、
「なんで、こうも早くなくなるんだろ?」
怪訝し、訝しむ。
そりゃもちろん吞むからだけど、吞めば減るという現象は、お・も・し・ろ・く・な・い。
酒倉では、「打ち出の小槌」も売って欲しいな。吞んだ分、翌朝にはまた満たされるというアンバイに……。
ま~、そうはいかないのが現実リアルというもんだ。チョイ、口惜しや。
でも、こたびは、
「複数本のお求めありがとうね、キャピっ♥」
売店の女史からギフトあり。酒粕1袋をもらっちゃったのは想定外、チョチョイ、嬉しや。