新訳で本が出ると、刷新感が前面にあって、良さげに想うコトしばしだけど……、時に、チョイっと違うんじゃないの~、と思う新訳もある。
H・G・ウェルズの『宇宙戦争』が、それ。
過去、ジュブナイルを含め数多アレコレの版として出回って、当方宅にも翻訳者の違う本、幾つか有り。
イチバン古いのは昭和42年(1967)刊行の中村能三(よしみ)訳の角川文庫。
さらに、同年に出た創元文庫、中村融が訳した“新訳決定版”。
この2冊は、トム・クルーズ主演のスピルバーグ映画『宇宙戦争』公開の前に出た。
当方ながく1967年の角川版-中村訳を愛読していたので、21世紀になってのこの2つの訳本には、やや面喰らった。
事件の発端となる火星での謎の発光現象の観測シーンで、久しく親しんだこの版では、地球側に向かって飛び出したらしき何かについて、
「飛翔体」
と書いている。
それに対し、新たな2つの訳本は、
「ミサイル」
と記される。
あらまっ、ロケットエンジンもまだ開発されてもいない大砲時代にミサイルって単語があるの?
大いに訝しんだ。
では、19世紀末のウェルズの原文はと調べると……、なんとま~、
「missile」
とあるじゃんか。
それでもっと調べてみるに、当時すでにこの単語は一般的ではないながら、ラテン語のmittere(投げる)から派生した物理学用語として存在し、意味は、
「外的なチカラで押し出され、慣性によって動き続けるもの」
というコトらしいのだ。
で、その延長として、
「石や矢や弾丸もその範疇に含む手や仕掛けによって発射される「飛び道具」を現す」
という意味合いが含まれ「projectile」と記されることもあったようなのだ。
というワケで、19世紀末に「missile-ミサイル-」という語があるのは、判った。それをウェルズが使ったワケだ。
この「missile」を1967年の角川版-中村能三(明治生まれの翻訳家)は、「飛翔体」と訳したワケだが、良いではないか。実にいいじゃないか。
北朝鮮から発射された物体を近頃の日本政府は「飛翔体」と云ってるけど、語彙の原典はこの中村能三の『宇宙戦争』かも知れない?
確定出来ないモノに向けての表現として、ゆえに、この「飛翔体」はとてもヨロシイよう思う。
一方、2005年(平成17)の2つの訳本は、そのまま「ミサイル」とした。
これは……、いただけない。
今の我々が耳にするミサイルは「軍事のための爆発物をロケットで遠距離に飛ばす兵器」というカタチにイメージが限定されているから、ウェルズの時代とは受け取り方が、まったく違うんだ。
小説中の「ミサイル」は第1章のはじめの方で2度ほど登場するけど、火星から兵器が発射されたというニュアンスはなく、地球からそれを観測した眼には、未知な現象としての、まさに「飛翔体」が飛び出たらしいという、その後の展開とのギャップも含んでの適切適語なハズだったよう思われる。
当時の英語圏の方々も、おそらくはこの耳慣れない単語を通して、遠い火星での異変を天文学的な事象のようにウェルズが書いたと了解したと思う。
それを21世紀の現在、ただ「ミサイル」と書かれると、直線的に、第1章の最初っから、火星が地球に向けて攻撃しているという感じになっちゃって、小説の流れとしてコレはそぐわない、というよりも展開の醍醐味の足を引っ張ってツマラナクしている……、と思うんだ。
しかし一方で、新訳によって新たな“領域”がもたらされるのも事実で、『宇宙戦争』の場合では、火星人と機械についての描写濃度がかなりアップしている。
1967年版-中村能三訳では、火星人のカタチが掴みにくい。
地球にやって来た火星人はアレコレの機械を使うのだけども、そこの描写がアイマイというか、どこが火星人そのもので、どこが機械なのかが判りづらい。
常に前置詞として“火星人”があるので、カタチの掌握がむずかしいのだ。
一方の2005年の2つの訳本では、そのあたりの描写がヤヤ判り良く、ほぼ頭だけの生物である火星人が、その行動範囲を拡げるがために、三脚足のトライポッドなどの機械に乗って、いわばパワードスーツのようにそれら複数の機械を活用しているという感じが、かなり明瞭に伝わってくるんだ。しかも、それら機械は地球にやって来てから順次組み立てているという辺りのコトの次第もよく伝わる。
明治生まれの中村氏は、1967年時点ではパワーアシスト、強化スーツというカタチの装着機械への理解が薄くって、それが翻訳にも反映され、彼の「火星人理解」そのものがいささか弱いような感じがあって、ウェルズのその発想を汲み取りきれなかったよう思えて仕方ないのだった。
けども、古典をコテンのままに味わいたい気分がコチラにはあるんで、中村能三の今となっては古めかしい訳が、その時代性の香気となって、イチバンに当方の気分にマッチするようにも思ってるんだ……。
ウェルズは火星人の侵攻によって右往左往するヒトを描写し、その心理にまで踏み込んで克明に描写しているが、中村訳はそこを日本語として実に上手に翻訳しているよう、思う。
氏自身の空襲体験など戦争をくぐり抜けた経験が、この『宇宙戦争』翻訳に反映しているような気もするほど、逃げ惑う人々の描写や心の動きが実に深いところにまで浸み沁みしてる。ウェルズの原文の中の悲惨を逃すことなく日本語に置き換えていると、思う。
その点で最近のバージョンは、判りやすいけども、古典ゆえの読書感が、いわば薄味スープみたいに平たくなった感じがあって、そこがどうも、引っかかるのだ。
すでに話の内容は判りきってはいるけれど、読む歯ごたえが新訳と旧訳ではいささか違うトコロが、読み比べとして、ま~、おもしろいワケです。
そのオモシロサを愉しんでいる今日この頃ではありますがぁ~、近年(2019)にコミックスも出てる。
3巻で完結のKADOKAWAのがそれで、大胆な脚色も加えつつ、極力にウェルズの19世紀末時代を忠実に描き出したというコトらしいのだが、読んでみるに、漫画として眼で見せるものだけに、火星人の凶猛な熱線(光線)や毒ガスの威力がビジュアルとして迫り寄せて、
「こりゃ、スゴイわぁ」
漫画の優位性に感嘆するんだった。
が、大きくガッカリもしている所があって、原作では主人公はアレコレの雑誌や新聞に記事を載せる著述家だったのを、写真家というカタチに変えているのが、よろしくない。
劇中、頻繁に主人公はカメラを持ち出し、撮影し、フィナーレではその写真の効力が感動的に描かれてもいるのだけど、ズバリいえば、時代に忠実ではないんだな、その描写では……。
登場のカメラの時代が違うんだ。
描かれているカメラは明らかに米国コダック社のブローニー・ジュニアNo.1 という製品なのだけど、それはこの漫画が舞台とする1901年にはないものだ。
漫画ではウェルズの設定した時代より1年先、20世紀に入った直後に変更しているけども、それでも、その1901年にこのカメラは存在せず、発売されたのは1920年だから、未来のモノなんだ。
加えて云えば、このジュニアNo.1は大衆向けの廉価なモノで、名の通り、お父さんが中学生くらいの子供にクリスマスにプレゼントするような製品であり、レンズ精度も平凡で、比較的容易にスナップ写真が8枚撮れるというカメラだった。現像やプリントは、カメラごとコダックに送り返し、新たなフィルムも入れてもらうというカタチだ。
一方で当時の写真家は、ドイツ製品ゲルツ・アンシュッツ・クラップ・カメラを使ってた。レンズも良くフィルムサイズも大きいので品質の高いプリントが出来る。現像や引き延ばしもユーザー自身がおこなう。ボディが大きいのは両手で左右からガッシリ挟み持って手振れを抑止するがゆえの構造だ。
ウィキペディアより
1920年代後半からはツァイス・レンズが採用され、日本では新聞社に写真部が開かれるや、多くがこのカメラ(キャビネ版サイズ撮影)を所有し使った(もちろん同カメラも年々グレードアップし、大戦時にはフラッシュを外装するなど、大きく変化している)が、戦後の日本では1950年にGHQ統括の元で米国製のスピグラ(正式名はスピード・グラフィック)という写真機のみが新聞社への「特別購入枠」として輸入(1946年からの臨時物資需供調整法に基づく)が許可され、結果、ドイツ製クラップ・カメラの座を奪ってる。
1954年の映画『ゴジラ』のシーン。スピグラを構えたカメラマンがみえる
そんな次第で、この漫画で描写されるカメラは時代が違う上、職業写真家が使うモノではなかったという史実とのすり合わせがかんばしくないんだ、な。
良いインパクトがある漫画だけど、そのあたりの整合性の悪しきが、かなり惜しいコトでした、な。