ヴァイオリン・ジャズギター・フラメンコギターという編成のSAS(サス)。名古屋からのお越し。ジプシーキングス系スパニッシュJAZZユニットというコトで、聴くのは初めて。
たまさか、70年代末の英国バンドCARMENの2枚のアルバムを愛聴し、シャワーを浴びるがごとくスパニッシュ・スパイシ~なフラメンコギターに官能の芯を燃やされている身として、こたびはどんなサウンドなんでしょうや? 興味シンシンで着座した。
やたら女史率高し。
ヴァイオリンが中心。それを奏でる高橋誠の人気がそのまま女史率高騰の原因か?
ウンうん。好い良い酔い。
3つの楽器が1本のロープとなり、時に直線、時に曲線、しなり、うねり、クルリ廻ってピョンと跳ね……、そんな自在なうごめきに優美さが引き出され、プチパインの瀟洒な空間そのものが、踊った。
が、しか~し、第2部がはじまった直後、当方の左足、フクラハギとアシクビ辺りが攣っちゃった。
グギ~っ。
ことさら急に運動したワケもなく、重い靴を履いてたワケでなく、理由不明。
前々日に備前市吉永の田倉牛神社に詣で、ケッコ~きつい石段参道に、
「うへ~っ」
とナンギさせられてはいたけど、よもや、それが原因とも思えないし。
なれどとにかく、攣ったツッタで痛いのなんの……。
こういう場合、隣りの席のヒトに救いを求めたって何ぁ~にもならない。隣席の谷本氏が気遣ってくれたけど、むしろ迷惑ゆえ、
「だいじょうぶ〜〜」
と笑む。
よって1人、脂汗が滲むような思いをひた隠し、足をモゾモゾ、両手でモミモミなどして、早急な緩和を願うばかり。
ちゅ~ワケで、後半の2曲ほど聴けてない。
耳に入ってはいても、左足の痛苦が優り、集中は演奏ではなくアンヨに……。
しばらく後、ほぼ突然のように、何事もなかったように復帰して、ヤレヤレのホッ。
なワケでの聞き逃しに、大きく損しちゃった気分ながら、後半のリズムにまたノッかって、再度、好い良い酔い。アンコール曲もしっかり堪能し、ま・ん・ぞ・く、の4文字で円を閉じる。
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上記の通り、過日に田倉牛神社(たくらうしがみしゃ)に詣で、勾配のきつい石段を登り、とんでもない数の備前焼の牛の山を見て、
「わお~っ」
積もりに積もったピープルの願望祈念に、かえって……、空恐ろしさを感じないワケもなくはなかったが、そんな気持ちの動きが、はからずも、翌々日のプチパインでの足攣りとして、いわば、報いとしてバチがあたったのか……、などと思っちゃ~イケナイ。
これはコレで、それはソレ。
同神社参拝では社務所で牛の備前焼ミニチュアを買い、さらに、堆積した備前焼き牛の中から1ケを拾って持ち帰り、念願かなえば2つをお返しするというのがシキタリだけども、当方としては誰とも知らないヒトが祈念をこめたミニチュアを持ち帰る気、なし。
ちゅ~ワケで、1200円で買ったミニチュア牛1つに、
「よろしくお願いしま~~す」
自身が祈念し、そのまんま持ち帰った。
枯葉踏みながら参道をゆく
そも、この田倉牛神社は一般的な神社でない。
本殿もなければ拝殿もなく、鳥居はあるけど昭和になって造られたもの。ジンジャではなくウシガミシャと読むあたりにもその生い立ちが滲んでる。
社務所におられる方も、「神官ではなく、私、僧侶です」と正直に申される。
では本来は寺だったかといえば、やはり、そうでない。
御神札もお守りも絵馬も破魔矢も、売っていない。あるのは牛のミニチュアと御朱印のみ。
上記の方(80歳代とのこと)と話す機会あったので、社の由来など聞き、そのさい当方はラミネート加工のお守りを頂戴したけど、それはこの方のごく個人的な神仏合体思想による授与品では、なかろうか。
ともあれ、大昔、農耕生活における牛を大事に扱ったゆえの、その牛を奉った、素朴で原初っぽい息吹きのみで成り立っているのが、ここの魅力。
牛に向かい無心に祈る、という基本が素敵。備前焼きの地であるコトもこの神社興隆に寄与してる。
かなり急斜な石段。これが足の攣りの原因か?
つもり積もった牛の陶器——
ここのトイレは、入口が男女別になってるけど、中は一緒の空間なので、いささか苦笑の要注意。
牛神社の帰り道、和気駅前の食堂で、どってコトのない親子丼を食べたけど、こういう場合、ビーフカレーあたりが、良さげだったかもや。