腰という部位

 

 前回ブログにもチラリと書いてるけど、腰痛ベルトを外せない日々が続いてナンギさせられている。

 室内で転倒し、どういう具合にひっくり返ったのかサッパリ判らないけど、とにかくそのさい、腰をひどくヒネったのはマチガイない。

 転倒後は左手上腕部の痛みにナンギし、やがてジワジワと腰が痛くなって、

「ありゃりゃ~」

 ナンギがでっかくなった。

 

 アレありコレありと、年末でいささか慌ただしくなり、今日も小さな、けども楽しみな忘年会が予定されているけども、ベルトをキュっと締めて出かけるっきゃ~ない。

 緩和傾向とはいえ、用心しないワケにいかない。

 腰というのは人体にとって大きなパーツで、傷めて初めて、アレコレの腰の役割を知らされて、

「へ~っ」

 とか、

「あらま~」

 とか、感嘆させられる。

 たとえば、椅子から立ち上がるといった場合、実態は足で立ち上がってるんじゃなく、腰が立ち上がるためのテコとなっている。

 足は立ち上がりのバネであって、腰こそが、この行為の要め……。

 なので、ここを傷めると色々な局面で想定外な苦労と痛苦を味わい、寝返りを打つのも実は腰を中心に動いてるコトが理解され、

「あへ~」

 と、艱難辛苦の濃い味をたっぷり噛みしめさせられるんだった。

 

 うどんや蕎麦という食べ物に関して、我々は、腰があるとかないとかアレコレもの申して、噛み応えに言及し、かつ追求するけども、現状での当方の腰は、

「コシのないうどん」

 って~感じで、3分後に食べるのを前提のカップヌードルじゃなく、10分ほど放置して喰らうヌードルみたいに、さっぱりダメっぽいグッタリのだった。

 

 ともあれ、腰に噛みつかれたような激痛が駆ける瞬間というのは超絶に回避したいワケで……、けども一方で、シャキっと背を伸ばしてさえいれば、歩行も駆け出しも可能で痛くもないです~、というケッタイも味わえて、ことさら、腰という部位の役割と存在と意義を意識させられるのだった。

 

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 で、腰とは関係なく……、久々、カップ麵を食べる。

 な~んとはなく可笑しな、見ようによってはもの悲しくも映るパッケージだったので、買い、食べる。

 たぬきの絵だから、きっと揚げ玉がメインだろうと思ったら、フタをあけるとワカメがメインでポンポコぽ~ん。

 想えば、カップ麵で美味いと悦んだコトって、あったかしら?

 袋入り乾麺の方がよっぽど味わい深くって、カップ麵はあくまでも非常食っぽい感が近年は……、濃くなるばかり。

 ま~、どうでもエエこっちゃけど、湯をかけて3~4分待つというだけの利便のみが、「おいしい」のだなぁとコッソリ思いつつ、チュルチュルすする。

 前屈みになるから、ヒリヒリと腰が痛いけど、麵というのは、背筋シャキっと伸ばして食べられるかい?

 ダメでしょう。

 カップ麵もまた、無自覚に腰を使って喰らってるんですわ~ね。

 

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 おそらくは誰しもが、トランプという人物をヤッカイなヒトだと想ってるはず。

 けども、このヒトが米国の次なるトップというワケで、戦々恐々、企業家達のトランプ詣でのニュースが流れ、やたら……、うら悲しい。

 数日前も、ソフトバンクの孫さんがトランプにぬかずいて法外な口約束して、

「よろしくお願いしま~~す」

 と、やってる。

 バイデン政権時は動きもしなかったのに……、うって変わった豹変というか、結局は利益の目減りを怖れてるだけの、

「腰、坐ってないなぁ」

 な感じ悪さがあって、腰痛ベルト締めて、腹くくらんか~い! 叱咤したいような気がしないでもない。ロイター通信の写真は、次期大統領に首ネッコをつかまれ、ジャレてるイヌのような孫氏のスガタを意図的に使って、情けない感じをいっそうあぶり出していた。

 が、けども一方、トランプにヘコヘコしちゃうコトそのものが、あえて火中に飛び込んで栗を拾うみたいな……それはそれで腰痛ベルト的緩和策なのかしら、とも思えないコトもない。

 でも結局、ぬぐえない不快は、15兆円ものどえらい額面をソフトバンクはどうして日本国内で活用せず米国に持っていくのかというコトにつきる。 結果、還元されて日本でのソフトバンクを通じた諸々、たとえば通信量なんぞが大幅に値下げとなるという好き循環となっていくとはまったく思えないワケで……。

 ま〜、少なくとも来年から4年間、世界はトランプという腰痛に振り廻され、それをどう忌避し、どういう方法で除けられるか、さらに悩み多きなコトになっていくのではないかしらね……。

 ブヒ〜ッ

 1970年、吹田の万国博覧会が開幕して笑っちゃうホドの大勢のヒトが詰めかけてた頃、斎藤哲夫は『悩み多き者よ』という、強く印象される歌を紡いだけど、いま再び、というか、今もあらゆるコトが「時代」という一方通行の流れとして続き、それに乗れようが遅れようが、どう苦悩しようがお構いなしの、ヒトと時間の関係について……、この歌を通して感慨させられる。