年末年始、正月を海外ですごすという方も多い。結構な事だけど、何やら寂しい感じがしないでもない。
お雑煮食べないのか?
素朴にそう思うのは自分が三箇日をお雑煮食べてすごすから……。
ま~、もっとも、日本人むけにハワイのホテルなどは雑煮セットみたいなのを用意してるようじゃあるけど、べつだん、それを有り難いとも思えない。
どんな味付けなんだか判らないし、何より、モチの数量が決まってるだろう……。
産まれてこのかた、正月は幾つモチを食べたかが重要と思い決めてるボクとしては、三箇日の朝は確実に雑煮、モチは数量限定ナシじゃないと……、正月でないのだった。
小学5年で岡山市に転居するまで山間の地・津山で育ったが、父方の雑煮には、クジラが入っていた。
黒い皮の部分とそれに連なる白い脂身のやや大きめの塊りが、必ずや入っているのだった。
父と母が結婚すると、それを踏襲することになる。
母は町に育った人で雑煮は京風、当初はそのクジラ入りに、とても作れない、とても食べられないと抵抗したようである。
けどもその子であるボクは産まれてからずっと、そのクジラ入りを食べてるんだから、抵抗なんかありゃしない。
雑煮といえば、クジラが入ってなきゃ~雑煮じゃないよ~、というくらいに刷り込まれたものだった。
赤身の肉ではなく背部分の黒皮のある脂肪層。当然に脂分が多い。多いなんて~ものじゃない、西洋人はそれ欲しさに、灯り用の油としてクジラを追い廻してたホドで……、その脂が雑煮の汁を濃厚にさせる。食感はコリコリし、けど決して硬くない。黒い皮ごと食べる。
それが天上的にうまいんだから、子供のボクはお代わりを重ねるのだった。1年を通じての最大の御馳走が雑煮だったと云って過言でない。
ま~、だから今も雑煮が食べられる3日間の正月を大事に思う……。
(この3日を保持するために逆にその他362日はモチを食べないという妙なヘキも生じてるけど)
写真:八戸南郷の郷土食「くじら雑煮」。お雑煮研究所より
ボクが子供時代に食べていたのに近いが、ネギなんぞは入ってなかったし、このようにまとまってなかったような。クジラはもっと分厚かったけど、クジラと餅と削り節だけのシンプルだったような……。
父方のルーツを辿ると、小豆島とつながる。
小豆島は天保八年(1838)から明治の廃藩置県まで33年間、津山藩領だった。地理的には遠方だが、いわゆる飛び領、飛び地だ。点と点は吉井川という線たる水路で結ばれていた。
その時期頃に父の先祖は小豆島の波打ち際から県北の雪深い津山に移住したと思われる。
海彦が山彦にと転じたわけだけど、クジラ肉を用いる雑煮は海彦時代の継承、小豆島がスタートだったろう。
けども時代が代わり、居住地が津山から岡山になった我が宅ではクジラ雑煮をやめた。
良好というか、脂分タップリの皮部分の入手が難しくなったようだ。
赤身の肉は廉価で手に入り、それでカレーライスもクジラ肉ではあったけど、皮部分はコロと呼ばれる日干したモノしか、どうも手に入れられなかったようなのだ。あったとしても価格が見合わなかったのだろう。
かねてよりクジラの脂身に好感を持っていない我が母としては、この不都合は好都合であったろうさ。たぶん、積極的に探そうともしなかったろう、さ。
写真:お雑煮研究所より
以後は鶏肉を代用として今に至る。
だから、もう何十年も食べていないクジラ雑煮がいささか懐かしく、食べてみたいとも思う。毎年この年末時には必ずや思い出す。
とはいえ、当時味わったうまいと感じた舌をボクはもう維持出来ていないとも感じる。
タンパク質摂取を必要とする子供時代、クジラ雑煮の脂のうまさに悩殺されたものの、はたして今それを平らげられるかどうか、自信はない。
雪深く凍えた津山ゆえに正月のその脂いっぱいの雑煮はうまかったワケで、今はそんな環境でもないし、こちらも脂を必要とする年齢でない。
自民党の二階幹事長いわく、
「断固とした決意で脱退する。どうして他国の食文化に文句を言ったり、高圧的な態度に出るのか」
いささか唐突でケッタイな感じが拭えない。
「調査捕鯨」というマヤカシ論法では歯がたたず、卓袱台ひっくり返しとなったワケだろうが……、残念な表明だ。
なるほど、牛肉が高値で潤沢にあるワケでなかった昭和30年代~40年代は、クジラ需要は大きかったろう。けども、もはやその時代は遠い。
むしろ、クジラなんか喰ったこともない若者の方が今は多いはず。
油分摂取のために幼稚園で肝油の粒を配給され、自宅ではクジラ雑煮で脂分というかタンパク質しっかり補給の時代と、今はまったく違う。
平戸市生月町博物館の展示模型
水産庁の「平成28年度食料需給表」でのクジラ肉は、国内生産3千トン、ノルウエーからの輸入1千トン、あわせて4千トン。
でもって国内の消費量は3千トン、だ。
おや~?
1千トンが余ってるワケだ。
ちなみに平成27年度(2015年)での日本の豚肉消費総量150万トン。鶏肉は240万トン! クジラと比較するのもアホらしいデスが、実体はもはや1千トンが余るほどにクジラ消費は劇的に落っこちてる次第だ。
二階幹事長はコメントで「食文化」という単語を入れ混ぜてるけど、はたしてどこまで理解した「文化」なのか、そこはかなり怪しい。
10月29日の衆院本会議で安倍首相は、「1日も早い商業捕鯨再開のため、あらゆる可能性を追求していく」と云い、これがIWC脱退表明につながる。
二階や安倍が妙に躍起になってるのは、彼らの選挙地盤に関係しているからだ。
安倍の地盤は捕鯨の拠点たる山口県下関市。二階は和歌山県太地町、あのイルカの追い込み漁の地。
彼らが云う「食文化」とは「商業捕鯨」での利潤だけ……、といったら云い過ぎか。安倍も二階も日常にクジラ喰ってるのか? な疑問も浮く。
一方で、かつては確かに商業捕鯨をやってたマルハニチロや日本水産、極洋の大手3社は、「商業捕鯨が解禁されても再参入しない」と方針を打ち出してる。
現在の日本人の食慣習では利益が出るようなクジラ消費は望めず、大型船を出すメリットはないと、絶滅危惧な動物愛護の観点でなく厳密な商業活動としてもはや成立しない、と断言する。
今現在の「調査捕鯨」は、国が支出し運営の国策会社がやってるだけのことで、特殊法人化された同社は山口市、安倍の選挙地盤にある。
クリア樹脂でつくられた山田勇魚氏のアート作品
おそらく今や、クジラ肉の事を云う人は、ボク同様な世代のいわば『懐かしい味』の事を云ってるに過ぎなくって、商業捕鯨を再開したとて毎日食いたいものかというと、まったくそ~でないだろう。
クジラ肉といえば竜田揚げが頭に浮くけど、肉のしわさに難儀したのもまた確か。
クジラカレーの独特な地味は地味としてあるけれど、ゴハンも他の具類も既に喉を通過したのに、筋多きクジラ肉だけがいつまでも口の中にあって、しばしモグモグ、無味となった硬い肉を噛みに噛んで呑み込まなきゃいけない悲哀もまたしっかり知っているはず。
そのような次第の上でなお『懐かしい味』を求め、「商業捕鯨」に固執する不可思議……。安倍や二階がいさましく言い立ててみても、それはノスタル爺イの喧騒、ボクちゃんを見て頂戴な選挙的言質でしか、ないでしょう……。
写真:鯨の前でポーズを取る芸妓たち。『日本財団海と日本PROJECT in 佐賀』より
「文化」という面で日本の捕鯨を眺めると、なるほど相当に大昔からクジラを捕っている。
縄文時代の遺跡にもクジラの骨が散見する。
江戸時代では、太地町のそれや、青森県八戸の南郷地域などに捕鯨で生計をたてている村があったし、湾岸各地には「捕鯨組」という組織もあった。
高野長英はシーボルトに渡した資料文献で、日本では年間に300頭前後を捕っていると記した。
むろん、あくまでも近海だ。
凍てついた南氷洋での、昭和50年代頃の何万頭という数字とは比較にならない頭数だ。
小さな背丈の日本人にとって巨大なクジラ1頭は文字通りに大きな存在でもあったろう。
「鯨一頭、七浦潤う」
と云われるほどで、その300頭は皮から肉から骨までが捨てられることなく、肉は保存食になり、灯かりの油となり、骨は工芸品に用い、ヒゲ(板状繊維)はたとえば浄瑠璃人形に使われたりで重宝された。屠った末には神社を建てて祀り、拝礼もした。屠ったものへの畏怖と神聖への運びこそが「日本の独自文化」だろう。
写真:鯨を祀った長崎県の海童神社
写真:浄瑠璃人形の内部。頭部を動かすバネとしてクジラのヒゲ(板状繊維)が使われていた。動物性タンパク質成分ゆえに虫がくる……。なので永くでも40〜50年で交換が必要。
クジラ捕獲はゼロとは望まない。けども、いささか悲哀もあるけど、「文化」は新たな環境で変わるものだ。
IWCを脱退するという事は、数量限定で捕鯨をやってるIWC加盟国ノルウエーやアイスランドは非加盟となる日本にはクジラ肉を輸出出来なくなる可能性もあるだろう。何がナンでも断固反対の頑強なオーストラリアなんぞの圧力がいっそう昂ぶって、輸出国を責める新たな抗争の元手となる可能性もある。
な~んのコトはない、脱退表明は自分で自分の首を絞めちゃったに等しい。よその捕鯨国に迷惑かけ放題になるやもしれない。
二階幹事長は日本の「食文化」に言及して吠えホエ~ルしたけど、結局はその号砲咆哮が「クジラ文化」をワヤクチャなジ・エンドにするスタートとなるんじゃなかろうか。リスタート気分で勇ましく電源をオフしたつもりが、スイッチじゃなく電源の線をプッツン切っちまったような。
江戸時代の記録を眺めると、捕鯨とは関係がなかった湾にクジラがさ迷い込んで、それはたいがいは死期を迎えての個体らしきだけど、湾周辺の漁民やらが総出でそれを捕獲、解体してアレコレに用いると、以後数年をニコヤカに過ごせる4千両もの大金に転じたというような実話が幾つもあり、それはそれで当然のようにその1頭のクジラにたむける神社を造って祀った。
写真は品川の利田神社鯨塚。寛政十年(1798)、暴風雨で迷い込んだ体長九間一尺(16.5m)の鯨を近場の漁師たちが捕獲。陸揚げ後、11代将軍家斉も見学に来るなど大騒ぎとなる。肉を採った後、骨を埋めて供養したのがこの鯨塚。
屠れば供養するなり神に祀るなりしていた、この辺りの日本人の風土的文化をば世界にアピールすべきだったと思うなぁ。IWCに加盟している多くが一神教の国ゆえ判りにくい感覚であっても。
そもアピールという点でも、こたびの脱退表明はおかしいよ。国内で十分に話し合った末での決定という次第じゃないもの。町内会のレベルとてこんな不意打ち的決定はしないぞ。
今も毎年、どこかの湾にクジラは迷い込んでるし、住民は総出で救出しようとするけど、たいがいは徒労に終わってるね……。
亡くなって砂浜に打ち上げられたクジラはその後はどうされているんだろ? あんがいとそこはニュースになっていない。事後は焼却のような「処分」だけじゃあまりに悲しいね。