スピナーのステアリング


ただいま全国書店で発売中の『ホビージャパン ヴィンテージ』。
その <クラシックSFを追え!> ページに、資料を提供しているので、書店で遭遇のさいはチラリとどうぞ。
ブレードランナー第1世代の身ゆえ、既にもはや『ブレードランナー』はヴィンテージか〜、といささか感傷しつつ、そこを熱意ある後続の若き探究者に託して後方から支援というワケで、がんばれマッキ〜君といった次第。
(この特集記事以外はまったく…、本としては尖ってないというか散漫で、うむむ…、ですが)



ま〜、そんなカラミもあって今回は『ブレードランナー』のスピナーのことを、そのステアリングについて、書いておく。
知ってるヒトは知っての通り、ポリス・スピナーのハンドルは独特だ。
映画が封切られたさいは随分と斬新に眼に映えたもんだし、模型化したさいもワクワクが持続したもんだ。




しかし…、この左右分離スタイルが世界最初のオリジナルかといえば、実はそうでない。
オリジナルはズィ〜っと時代を下る。
1956年まで下る。
当時の米国フォードのブランドだったマーキュリーは、新参のコルベット社の販売シェアの急拡大にナンギしていた。
そこで独自カラーを発揮すべきとアレコレ考え、車輌の専門家だけでなく航空宇宙技術者までを招聘した。
そのうちの1人がR.J.ランプ氏。彼は飛行操縦桿応用の新発明をおこない、マーキュリーはその新感覚を導入、販売しようとした。


それが、この車。↓


当時の米国車はでかい。当然ハンドルも重い。
ユーザーが女性の場合、町に買い物に出かけて駐車しようとすると…、苦労する。
そこで、従来の丸っこいハンドルではなく、2本のタイヤを別個にコントロール出来るハンドル・システムを考えた。それもパワー・アシストで軽快に操作出来るのを。



1つのタイヤをロックさせ、片方のタイヤの向きを変えることが出来たら、狭いスペースへの駐車がスムーズだ。
ロックさせたタイヤを中心に車は回転するから、前進も後退もせずに向きが変わるわけだ。
それを本気で開発し、プロトタイプを作った。
ここに掲載の写真たちはその車両、プロモーション用に撮られた映像のヒトコマだ。





マーキュリーは、あえて女性ドライバーを前面に出し、お買い物のさいの利便を、この新ハンドルに託し、アピールした。
正式名称は、リスト・ツイスト・インスタント・ステアリング(Wrist-Twist Instant Steering)。
オヤジィ〜ズやボーイズでなく、レディースに向け、
「いいぞ〜〜♡」
訴えたわけだ。むろん、ギア・チェンジのメカニックはAT仕様(現在のATは進行方向に前後操作だけど、このマーキューリATは左右にスライドさせる)。ワイパーの作動などはハンドルそばのボタンで行う。



※ このバーでハンドル位置の高さも変えられる。




確かに斬新だった。しかし、このツイン・ハンドルな新システムは市販されず、プロトタイプで終わる。
なるほど便利そうではあるけど、ドライブするにはちょっとしたコツも必要だったようだし、何より、ごく1部の大都会街路を除き、米国は広くって道路事情は悪くない。駐車スペースに苦労するパーセンテージは低いんだ。
結果、当時最新のパワーステアリング技術を導入での、従来の丸いハンドルに落ち着いた。
だから車の歴史の中では、イレギュラーなファール・ボールとして、これは忘れられたシステムだ。
歴史にイフがあって、大ヒットしていたら、今の丸っこいハンドルはとてもグッド・オールディスな古〜〜いものになっていたかもしれないね。
ホッ。



※ TVC-15の模型


ブレードランナー』は過去と未来を巧妙にジョイント出来えた希有な作品と云ってもいいが、このハンドル・デザインにもその辺りの事情が忍んでるんだ。
確か、映画本編では50年代末期の古いクライスラーだかマーキュリーだかが複数、背景に出ていたよう思う。
当時への敬意というコトであろうか? あるいはフューチャー・カーとしてのスピナーなどとの対比によって、この "誰1人幸せでない孤独で埋めつくされた近未来" と "ドリーム・カム・トゥルー" であった過去への愛郷ないし哀惜を醸そうとしたであろうか…、そこは判らんけど、監督リドリー・スコットも気づかなかったアレコレの相乗効果がこの映画では著しく屹立していた…、というコトは云えそうだ。
映画作りに関わった方々の個々の創意工夫が、いわば色々なギアが、実にうまく噛み合ったんだ、ね。



※ 模型のハンドル部分


以上は、いわば重箱の隅ッコをほじくるような情報でしかないけど、1本の名作となる作品の背後にゃ、こんな"史実"もあるって〜コトなんだ。
我らが故・新関純一はそこの消息を探って飽きないヒトだったし、彼の気分を、今日は少し自分にふりかけて、これを書いてみた。



ちなみに50年代後半から今に至るまで米国ではクラッチ仕様車はほぼ、販売されていない。(戦車などもね。運転の習熟時間がそれで大幅に短くなって即戦力というワケだぞ)
でっかいトラックもバスも皆なAT。オートマチックがあたりまえの基本がUSAだ。




映画『スピード』で、サンドラ・ブロック嬢が巨大ハンドルのバスを運転出来たのは、そういう理由だし、とあるカー雑誌によれば、米国の自動車評論家は総じてクラッチ仕様車を運転出来ないから、それで懸命にフェラーリなども追従し、論評に価いする車に変えてったという。
ま〜、そんなんだからポリス・スピナーもインスタントなオートマチック仕様な警察車輌という設定だろ、ね。もっとも、そうでなくば飛行もするから運転が大変だわさ。そこを思うとやはり、丸いハンドルじゃ〜いけませんなぁ、左右に分かれたハンドルがビジュアル効果として、とてもマルでした。



え〜っと、次いでだから書いておきますがぁ…、『ブレードランナー』の最大ポイントというか、何を視点に観るかといえば、眼だろうね。
観客である私たちの眼が、画面の中の役者たちの眼に向かうべく個々のシーンが造型されているような感じを受ける。
眼に力のある役者を揃え、イチバンに力がないのはハリソン・フォード演じるデッカードだけど、たぶん、そこも演出だろう。
巻頭のメダマのアップ、フォーク・ド・カンプフ機の眼へのアプローチ、人造メダマ技術者の殺害、レーチェルやプリスや警察署長を含めた全ての登場者の眼の力、ヘビ遣いのゾラの意志硬きな眼と涙、スピナーをドライブさせたガフの灰色の感情の読めない眼とその振る舞いのヒトっぽさ、フクロウの眼、そして最後の最後ではロイ・バッティが眼にしたオリオン座の彼方の光景…、それを耳で聞くしかないデッカードの眼(すなわち観客たる私たちの眼)。
眼に焦点をあてて、もいちど観てみると『ブレードランナー』という映画の原子核が"見えて"きますぞ。
そも、巻頭のロスアンゼルス市街の、見るからに、覚悟なくば生きていけないような凶猛感が醸される街並と、そこを、猛禽が静かに襲いかかるようにカメラはゆっくり移動するけど、その視点は観客の私たち傍観者のそれではなく、レプリカントのロイの眼だよ。
否応もなく観客はそこで同化させられていて、それが彼のメダマのアップにつながってくという仕掛けでもあって…、こういう視座の確保が去年末の『ブレードランナー2049』には欠落してるんだね。
だから巻頭からして既に鋭角な覇気のない…、視力が落ちた映画だった。最初から最後まで観客はただの傍観しか出来ないんだ。
ボクが感じたこの続編のつまらなさは、そういうトコロから出てるんだと思うな。