岡山神社 − 社報


岡山神社さんの社報『さかおり』に、寄稿している。
10月の秋期大祭に併せて刊行配布の最新号だ。
今回は、甚九郎稲荷の石門についてを書かせてもらった。
岡山神社に出向く方あらば社務所で頂戴できると思う。ご一読あれ。
ここでは、その石柱について補足的に触れておこう。



この石門(柱)は今は甚九郎稲荷の玉垣の一部と化して、あまり注目されていないけど、大まかにいえば、これはかつての「亜公園」内にあった天満宮の”鳥居”(石柱)で、当時は独自に立っていた。
「亜公園」の基礎構想には岡山神社内の天満宮と密接にからむ諸事情があって、だから巨大な複合娯楽施設だったとはいえ園内に神社(天満宮)を設置することは、最初から計画されていた。
その後およそ10年、同園は市内最大の観光スポットとして盛況だったが、明治38年には閉園となり、園内天満宮甚九郎稲荷に移設された。
石柱も移動し、上の写真の通り、稲荷入り口にある。


鳥居というのは、2つの柱を結ぶ「貫(ぬき)」と「笠木(かさぎ)」が頭上にあるのが基本だ。
参拝者はその下を潜り抜けるというのが通常の構造だ。
しかし、この石柱にはヌキもカサギもない。
だから、細かにいえば、これは鳥居じゃ〜ない。
が、鳥居として”機能”するという門柱だ。



※ 岡山神社の鳥居「随神門」を例に解説 ♥


鳥居のない神社というのは、実はとても少ない。
ボクが知る範囲では全国に2例しかない。
群馬県太田市の石原賀茂神社と、さいたま市浦和区の調(つき)神社が、そうだ。
石原賀茂神社のは甚九郎稲荷と同様に石柱だ。
調神社のは巨木に育った2本のケヤキを柱とし、注連縄で結んでいる。
ご両社ともに鳥居のない事を逆に”誇り”にしておられ、たしか太田市では観光スポットのスタンプ・ラリーの1箇所に同神社を指定していたと思う。



※ 太田市の石原賀茂神社


だから実は、甚九郎稲荷に立つ2柱はとても稀有な存在なんだ。
これが「亜公園」内にあった頃の明治時代を思えば、訪ね寄ったヒトは皆さん、まずはこの石柱のところで足を止め、
「今よりお参りいたします」
一礼したに違いなく、神域の境界として今よりはるかに重要な役を担っていたと、これは断言できる。
鳥居らしきカタチじゃないけど、それでもコレは鳥居だろう……、かすかな訝しみをおぼえつつも参詣した筈だ。



※ 「亜公園」で販売されていた「亜公園之図」の一部分。石柱が確認できる。
何故にこのカタチとなったか……、もはや空想するしか手がないが極めて稀れな門(鳥居)だというコトをご理解いただきたい。



※ 模型再現による天満宮。このカタチがそっくり移築されたのが甚九郎稲荷だ。
今の甚九郎稲荷は戦後に造られたもので赤く塗られているけれど、焼失前、明治から昭和20年8月まではヒノキの木目がよく映えた社(やしろ)だったんだ。



※ 「さかおり」表紙。亜公園の集成閣と天満宮の模型を大胆にあしらって斬新、クール♥


ちなみに寄稿した記事では、鳥居の色についても言及している。
鳥居といえば誰もが赤(朱)色を思いがちだけど、実は全国神社を統計的にみれば大半は白系列なのであって、それは木造構造物たる本殿や拝殿のヒノキの白に呼応して……、と、そのあたりの消息は11月17日のシティミュージアムの講演「岡山木材史」の中で多少、触れようかと思う。
なぜに日本人はヒノキ造りの家を好むのか……、どうも、その木目の白さに秘密があるようなのだ。



11/17講演のチラシはこちらからダウンロードできます。