岡山神社音楽祭 + 甚九郎稲荷物語

 

 祭日の月曜午後。雨のち曇りで木陰は冷んやり。

 岡山神社音楽祭にチョコっと顔を出し、ステージをば眺め、居合わせた何人かの知友と立ち話。

 昨年同様、楽しい演出とラフな空気が、いい。ひんやり気味の大気をあっためる。

  拍手喝采とどよめき声にくるまれた顔変化芸。まだ高校生だそうだが、瞬時のマスク変化にゃ驚いた

 

  禰宜の久山氏に、過日の中国銀行広場でのイベント時、当方のスタッフ駐車場を便宜してくださった御礼をのべ、こたび朝まで雨であったゆえの、気苦労をばねぎらう。

 

 これはビックリ〜、井山明典ィ〜、なぜでしょコンナとこにぃ〜、とあがた森魚の替え歌をついクチにした上写真。なんのコトはない、岡山神社音楽祭の出演者。過日のあがたさんライブ同様に関西からカムカム。

 しかし、彼の超絶キーボードをこたびは聴けない。コテコテ関西味のギャグを聴けない。

 盛り上がっているステージに後ろ髪ひかれつつ、3時前に道路向かいの山陽放送へテクテク。

 

 能楽堂ホールの客席に座し、『甚九郎稲荷物語』を観る。

             

 創作劇。

 能楽堂すぐそばの甚九郎稲荷がクローズアップされるのは、イイことだ。とてもイイことだ。

 役者陣も演奏の三人も良かった。

 3年前、山陽放送本社内にこの能楽堂が出来あがり、その最初の舞台出演(講演)が当方で、題材は「亜公園」だった。

 

 能楽堂を有した山陽放送新社屋が建った場所に、明治期岡山で最大にして唯一の複合娯楽施設・亜公園があった。

 亜公園閉園後に同園内に設けられていた天満宮を移設し、現在の甚九郎稲荷のカタチとなった事などをしゃべった。

 概要は講演録として出版されているので、興味ある方は同書を参照されたし。(『近代岡山 殖産に挑んだ人々 1』 発行:山陽放送学術文化・スポーツ新興財団)

 だから、芝居を観つつ感慨深くはあった。

 

 

 こたびの芝居の下敷きは、大正3年に大阪の樋口隆文館が出版した『史跡甚九郎稲荷』という講談小説だろう。

 著者は中村兵衛

 宇喜多家再興を目論んで岡山に潜入した佐久間甚九郎の冒険譚。

 岡山城の堀にかかった橋の上で敵方に取り囲まれて万事休すという時に巨大な白狐が現れて彼を助ける。

     

             おりたたみ式の彩色画。狐はエンボス加工されている

 

 明治にいたるまでの江戸期のながい間、岡山城には内堀を渡るための北ノ橋という大きな橋があった。場内に入る重要な橋で、どういう次第か、建立されて後に「甚九郎橋」と通称されるようになった。古文書「和気絹」にもその旨が書かれている。

 中村兵衛はこの橋と甚九郎という謎の人物に着目し、クライマックスで白狐を登場させてファンタジー色をからめた小説を書いた。

 

 実は……、この小説が現在の甚九郎稲荷の『由来』となっている。

 中村が執筆する前より、甚九郎橋に関しては幾つかの伝承があり、中村はそれらを組み入れ刈り込み、1つの作品とした。

 詳細は省くけど、ともあれ小説が「由来」の母体となっているコトが、とてもオモシロイ。

 

  

 

※ 甚九郎稲荷は、明治となって内堀が埋め立てられたさい北ノ橋のそばに設けられていた小さな祠を、上之町の若い衆達が数10メートルほど移動させて新たに稲荷として建立したのがスタートだ。現在の場所よりほんの少し離れた場所にそれは作られたが規模はささやかだった。この時点で甚九郎稲荷と名がついた。

 現在の地所を確保して社殿などが再構築されたのが明治38年。亜公園内の天満宮遷座して迎え入れ、規模を拡張し一気に豪奢となった。残念ながら昭和20年の空襲で喪失、戦後に再建されたものの社殿は小規模となって今にいたる。

 

 尾崎紅葉の幼馴染みでもあった中村は一時期、岡山に在住し、中国日報(岡山の地元紙)の記者として在籍している。

 大阪に移動後は数多の小説を書き、依頼に応じて恋愛小説でも活劇でも何でも書いた。その内の1つとして数えていいのが「史跡甚九郎稲荷」だ。

 誰が執筆を依頼したのだろう?

 上之町には細謹舎という県下最大の出版社があり、社主の北村長太郎は亜公園創立の片山儀太郎とも懇意だし、上之町の再起動を、町おこしを願う市会議員でもあったコトを考えると、中村兵衛にイチバンに近い人物だったと推測もできる。

 だから想像をふくらませ、執筆の経緯を思うとオモシロイ。

 大がかりな亜公園という施設を失って賑わいを望めなくなった当時の上之町界隈の方々(商店)が、それに代わる、ヒトが集え、上之町の賑わい復興のキーとなる施設として甚九郎稲荷を成形していったよう……、思われる。今に続く同稲荷の祭(7/24・25)はこの時期にスタートする。

 今現在では信じがたいほどにこの祭は成功し、毎年大勢の人が訪ね寄って、後楽園〜西大寺を結ぶ西大寺鐵道は臨時便を出すほどだった。

 

 中村兵衛が本のタイトルに「史跡」と入れたのも、オモシロイ。

 史跡というには遠いカタチを“事実の跡”として記したことで、それを核として諸々が動き出した様相がオモシロイ。

 ま~ま~、そういった次第を思い浮かせつつ、能楽堂の芝居を見終えたのだった。

 

 開演前の能楽堂。お客ギッシリ。私の講演時はコロナ蔓延のさなかゆえ入場制限厳しく、演台の前には透明アクリル板があり、さらにマスク着用で話せるかとマイクのテスト。結果、マスクなしで話せたけど、こたびはコロナ翻弄の時期が過去形になったのをシミジミ感じもした。

 

『史跡甚九郎稲荷』は大正2年の5月5日から9月10日まで「中国日報」に『史跡講談甚九郎稲荷』として連載され、翌年に大阪発の本として出版されている。

 亜公園のクローズと園内天満宮と旧甚九郎稲荷の合体は明治38年だから、小説はその7年後に書かれたことになる。

 史実の中の甚九郎稲荷と創作構築されていった甚九郎稲荷の由来とのギャップがオモシロイのではなく、その両者の成立がとにもかくにも、頼もしい程に隆々として、そこが醍醐味として面白く、興味が尽きない。



 亜公園ユカリの地に本社を置いたRSK山陽放送さんには、規模も内容も問わないが毎年に、この地域の興隆とヒトの交流の温度を上げるべく、甚九郎稲荷を題材にした何らかの企画提案を続けて欲しいと濃く願う。

 明治・大正・昭和と連綿と続く上之町(現在は天神町と上之町に二分)地域の方々の慕情にからませて、地域ヒストリーの継承と良き更新、継続する事でのさらなる文化醸造を願ってやまない。