元旦初日からのひどいグラグラでなくなった方の冥福を祈りつつも、この1月が終わる。
2日には羽田での瀬戸際脱出劇。
数分遅れたら、えらい惨状となったのはマチガイなく、必然として「奇跡的」という語が生じたのも、ま~判らないではない。
思えば、「ハドソン川の奇跡」もそうだった。
実際の事件は2009年の1月15日だ。羽田同様、同じ1月だった。
不時着水ゆえ火の恐怖でなく、こちらは水没の恐怖。真冬の水温氷点下ではヒトは長くは持たないんだけど、機長の巧みな着水とその後の誘導、近隣の船の駆けつけが功を奏した。(機体は着水して1時間弱で完全水没)
ハドソン川の件は後に映画化されたけど、こたびの羽田もやがて映画だかになるのか? いや少なくとも日本映画は造られないな。もう一方の震災地に飛ぼうとした飛行機があまりに気の毒。
ギリギリ瀬戸際でセーフだったという意味では、派閥パーティによる集団ネコババ行為での起訴をまぬがれた自民党醜悪議員諸氏の、「やれやれ、ほっ」といったズ~ズ~しいのもそうなんだろう。
もちろん、祝福に価いしない。
労せずして秘密収入を得て、ばれても尚、ナンだカンだと言いつくろってる連中が政治の中枢を担っているブザマをマノアタリにすれば、フランスや英国や米国なら国会取り巻いた大規模デモやら暴動が起きてあたりまえだけども、ニッポンはそうならないのが不思議。
どこか……、我々は犠牲の儀の字に似た「蟻」と書く、集団でありつつ黙々しきった生き物っぽい。
皆なで一押しすれば腐敗連中など容易に退場させられるとも思えるけど、近頃の日本共産党がごとく身内批判にエネルギー費やして昨日までの友を糾弾排除といった、小さく内向きに集団化してしまっちゃ~、グラグラした大地同様に不安定。お伽噺の門とて開かない。
年末から新年にかけて、amazon primeが「ハリー・ポッター」シリーズ全8話を一挙配信したので、順おって観たんだけど、だんだん退屈になってったのは、こちらの感性が劣化しているゆえかしら?
3話までは映画館で観たけど、以後の作品は接していなかった。
成長物語。3人の主役たちも子供から大人へ声変わりし、容貌も変化してと、そこはそれなりにヨロシイのだけども、同時に、コドモ→オトナへの移行が哀しく眼に映えたのも事実。
大昔に読んだ「鉄腕アトム」第1話の天馬博士の悲哀を思いだしもした。
天馬博士は亡くなった子供の代用としてアトムを創ったものの、背丈も伸びないアトムに苛立ってアトムを虐めてしまう次第ながら、グローイングアップの、受け入れ、あるいは拒絶、というようなコトが映画を観つつ常に明滅し、それが余計にハリー・ポッターの御伽に没頭できない足枷になったような気がしないでもなかった1月。
過日にイトメン本社で買った「キャベツラーメン」が、珍しさも加わって、美味しかった。
キャベツをメインにもってきた英断がキララっと光って秀逸。さらにキャベツ切って増量させ、ムキエビなど入れて、はんなりとした塩味を愉しんだ。
次に出向いたさいにまた買うつもりながら、やはり「チャンポンめん」の旨味にまでは昇っていなくって、そこらあたりがイトメン社の課題だな……、小生意気な評論家みたいなコトを云いつつも、アイ・ラブ・イトメンに変わりなし。
1月半ばに届いた、1970年当時の万国博覧会グッズ。
純然たる置き物で会場内で売られていたらしい。例によってオークションでの競り落とし。
経年で外周金属フレームのメッキが剥離しかけていて、応急処置でビニール被せて保護したけど、中身は大丈夫。丸い青色の透明プラスチックが中のオブジェを浮き立たせてヨイ効果を出している。
金ピカの大阪城と金銀にメッキされた太陽の塔が、安っぽいながらも大阪スーベニアンなテーストを醸し、1970年当時、お財布からお金出して、ついコレを買ってしまった方はきっと関西圏のヒトじゃなかったろうとヒッソリ想い、さらに54年後の今、私のところにやってきたゴエンを思ったり。
会場でこれを買ったのが当時40代か50代くらいの人物と思えば、その方が亡くなって家財道具が親族の手で処分され……、それで古道具屋経由でオークションに出品されていたのかもと空想するワケだ。
モノはモノを云わないけどモノガタリを秘める。
秋に葉を落としたカリンが、すでに芽吹いている。
寒い日もあれど長続きしない。やはり温暖化ゆえか?
新芽が出るのは一見は喜ばしいけども、早く芽吹くと、生理障害を起こして病気になりがちだそうな……。2月はどんな気温となりますやら?
それにしても能登半島の壊滅的打撃……。
観光資源も漁業も生活もメチャになってしまった深刻度合いの深さに衝撃されたまま、かの高名な一語「地の塩」ではないけども、近所のスーパーの応援セールで北陸方面のモノを買ったりするしかなかった1月ながら、続々更新される諸々なニュースの量に押されて、現在進行形の苦痛であるハズなのに、亡くなった方の四十九日もまだ済んでいないというのに、早や風化が進行しているようにも思えたり。
ヴィム・ベンダースの『PERFECT DAYS』をシネマクレールで見終え、たかちゃんの店で吞みつつ夕食をとってるうちに、やたら『ベルリン・天使の詩』を観たくなる。
“受け入れる”という一語とその行為がたえず明滅し、起承転結の物語ではなく、静かな力強さみたいなものを心が欲しがっている。
たしかDVDがあったはずと帰宅後に書棚を探したけど見つからない。
探すのをやめたら出てくるかもと一夜置いてみたけど、出てこない。
なので翌々日にBlu-ray買ったけど、チャチャッと観るような映画じゃないんで、こちらの気分とピタリ符合した頃合いを待つことに、する。
その代わりと云っちゃ~なんだけど、『PERFECT DAYS』で石川さゆりの横でギター伴奏していたあがた森魚のアルバムを連続で聴き、引いて満ち、満ちては退く、彼の海の波間に漂う。
あがたは昨年11月末頃に「海洋憧憬映画週間」(仮題)という新アルバムのリリースを予定し、ご本人と当方のやりとりの中、その内の一曲をサンプルとして頂戴してもおり、期待を濃くしていたけれど、別アルバムに差し替えられ、1月になって販売を開始している。
そのあたりの彼の心境の変化変遷をたどる必要はないけども、いみじくも結果としては、日本海側と太平洋側の相異はあれど、寒々として荒れた海洋光景のジャケットが、能登半島の津波を含む震災とかぶさって……、この1月というヒトツキの流れをいっそう印象づけてくれた。