ジョニー・ディップが製作し出演した『MINAMATA-ミナマタ-』を観ると、彼演じる写真家ユージン・スミスは、撮影以上に、プリント時に注力しているのがよく判る。
暗室の中、印画紙に像を結ばせた彼はその像の中に絶妙な陰影をつけるべく、時に現像液だか定着液に指をいれ、部分をこすったり、ゆすらせたり、ライターで部分にのみ光をあてたり……、して撮った写真1枚の仕上げに奮闘する。
写真家が描き出そうとしているものに向けての姿勢が、それらのシーンでより鮮明になる。
均一に刷ってオシマイの印刷物とちがい、写真家の銀塩写真プリントというのは、1枚1枚が違うワケだ。撮るよりも、その後のクリエーションがポイントだったコトをこの映画はうまく示し見せる。
そんな行為あってはじめて、水俣の惨状を白黒写真というカタチの中に浮き上がらせ、当然にその1枚の中にユージン・スミスの怒りや告発が含み入れられて「作品」となっているワケだ。
彼の意識が暗室作業で注入されるんだな。
今はデジタル主流で、当方とて写真といえばiPhoneでの撮影のみだけど、Adobe photoshopに代表される画像編集として「簡単に不要なモノを削除しちゃえ」みたいな機能強化を売りとして前面に出しているのは……、どうも好かんなぁ。
恩恵も多々あろうけど、ユージン・スミスが1枚の写真完成のために格闘したコトを思うと、
「気軽にやっちゃ~イカンでしょう」
安易な編集術の横行を気がかりに思う。
androidスマートフォンで柔道家が撮り、ジョークとして、指先1本でチャチャっと即座に画像をつついて当方に送信されたもの。その機種ではハナっからこんな機能がついてるらしい。
こちらオリジナル
つい最近、キャサリン妃と子供たちの写真が英王室から公開されたけど、加工されているとして、AP通信やロイター通信など主要メディアは同写真の配信を取り消すという騒動になったようだ。
BBCが報じた詳細をみるに、加工は被写体の指先やセーターの袖といった、極く極く微細な部分なのじゃ~あるけれど、しかし、
「本写真は写真にあらず」
と報道機関がきびしく判断したこたびの騒ぎは、なかなか象徴的というか、デジタル時代の利便と脆さが浮き彫りになって、興味深かった。
要は、写真とは何だ?
という問いなのだ。
ユージン・スミスの印画紙への操作と、キャサリン妃ご自身が見栄え良くしようとしたらしき写真加工とでは、何が違うのか、あるいは違わないのか、即行で答えられそうでそうでもない、むず痒い提起に思える。
加えて今はAIによる写真創造という新たな領域も拡大中。
「写真の定義」
は大事ながら、それが逆に、包括的な意味で拡がりを狭めることになりはしないか、定義が写真価値を維持すべき基礎なれば、写真のさらなる創造とその変化を阻害しないか、などと考えると、ギアをアップすべきかバックギアにいれるか……、混乱してグッチャラケ。どうでもイイようで、どうでもヨクはないハナシ……、と思える。
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17日の日曜は、馴染んだ店での大塚まさじのライブだった。
裏方として早い時間に入って会場作り。
同氏の歌声を聴くのは2022年6月のギャラリー・グロスでのライブ以来だから2年ぶり。
日常はフォーク系音楽に接しないから、微かな新鮮もおぼえつつ、沢田としきの大きな絵を貼ったり、椅子を並べたりの作業をし、氏のリハーサルを眺める。
同日同時間帯では、すぐそばの城下公会堂で「太田徹哉トリオ」のライブもあって、メンバー揃ってこちらもセッティング中。
あっちこっちでライブ……、なんとなく春っぽくてイイのだが、この日はあいにくの雨天。
こたびは近場のホテルの一室を取ってくれていたので、作業後はしばし、雨に濡れるオリエント美術館をば見下ろしつつ休憩。
本番は盛況。搾り出しつつ噛みしめるような氏独特の歌唱法での2時間はアッというまに過ぎる。なが〜いキャリアの積み重ねで磨かれた柔らかながらツボを押さえた語り(MCとはいわず)も良いアンバイだった。
いぶし銀というようなベタな形容詞じゃいけないけど、多年の積層が凄みとして沈殿し、それで裏打ちされた上での、ゆるやかなユーモア含みのおしゃべりが最高。
1ヶ月前の秋本節ライブと同じく、こたびもWakameちゃんの差し入れあって、感謝カンゲキのポテトサラダを口に運び、デッカイ悦び味わえた。
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FIATのオイル交換やらで、丸2日、代車の軽四に乗ったけど、キーがヘンテコリンで苦笑し続けた。
キーをポケットに入れて車から離れると、操作せずとも自動で施錠する。
近寄れば勝手に解錠もする。
ま~、それはいいのだけど、ポケットに入れたままで車のそばを行ったり来たりするたび、
ガチャ
ガチョ
ガチャ
ロックしたり解除したり……、せわしないったらアリャしない。
気が利いた機能と云いたいトコロだけど、小さな親切大きな迷惑。イライラさせられるだけの大チョンボ。
ダイハツは翌年の新型車からこの機能を取っ払ったようだけど、そりゃま~、当然だったろう。
至れり尽くせりな機能として搭載させたものの、至ってないね~、尽くせてないね~と苦笑するっきゃ~なかった、ぞ。
逆にこれを面白がって、用もないのに車に近寄ったり離れたりしては、
ガチャ
ガチョ
ガチャ
車が音をたてて動作するのを、た・の・し・ん・だ。
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坊さんがいつもの白い車でやって来て、仏壇前に座す。
当方、強い仏教心は持ってはいないけど、句読点の1つとして、
「ぁあ、今年も春が来たんだなぁ」
とは思う。
坊さんの背後に座って坊さんの後頭部を見つつ経を聞きながし、アタマの中では、
「ボチボチ、庭池の水換えしなきゃ~イカンな」
などと関係ないコトをば考える 春のお彼岸。
お宗派によっては読経が30分近くもなが~く続くのがあり、そういった宗派はたいがいアレコレのしきたりもうるさく、お寺さんによっては戒律重視で朝夕に仏壇に仏飯などの供え物欠かすべからずといったアンバイらしいが、当方宅は浄土真宗本願寺派で、経読みも4分ほどで終わるので、ラク。
坊さんは経を終えるや、
「近頃はこれが元で火事になる例がありますんで」
灯したロウソク2本は直ぐに消す。
そういう小さな配慮にチラリ感じる……、お寺さんのあ・り・が・た・み。