馴染んだ店で馴染んだミュージシャンのライブ。
10ヶ月ぶりの秋本節(たかし)のギターと歌。
同じ店、同じ場所で昨年末に堪能したDATE SOLOライブ以後、ナマの演奏を聴いていなかった。
ま~、そんなもんだ。
DATE氏のライブでは清涼な湖に身を浸して活力を頂戴するような充足と満足があったけど、こたびもまた、乾いた皮膚に潤いがもたらされ、
「ふふふっ」
当方ひそかに、喜色を浮かせ彼の数多のバラードに耳をかたむける。
1月はなぁ~にもナマで聴いていないけど、年末時とこたびと、まことに美味しい馳走を連続で味わえた至福にひたるんだった。
当然にご両者のキャラクターは違うけど、その違いが旨味というか、味わいの芯。そのヒトの姿カタチに萌える。
比較としてではなく、好感寄せているミュージシャンの演奏をナマで聴けるその幸に、身体もココロも悦んでいるんだった。
終演後は階下に下りての打ち上げとなるけど、そのさいはいつも、演奏をおえたばかりのミュージシャンと、どのような距離感をからませて喋るべきか……、考える。
ステージから降りたばかりできっとくたびれているハズだし、チャプチャプチャプとこちらの思いを告げて自己満足って~のはイカンだろう。そう常に警戒というか戒めというか、意識的に距離をあけておこうとしている自分がいる。
エネルギーを放出したミュージシャンと、エネルギーをもらったオーディエンスとの区別を、その場ではキチリ仕分けておかなきゃ~ミュージシャンに申し訳ないと思っている。
ま~、その頃合いがいまだよく判らんのだけど、ともあれ、楽器を鳴らし歌声を披露するヒトに向けての憧れがボクには強い。
羨ましい……、のだね。真似できない高みにミュージシャンはいるワケで。
さらに加えて申せば、たとえばこの秋本は29年前の1月17日、住まう神戸で激震に見舞われ、かろうじて家から脱出し、眼の前の凄惨な光景に息を吞んだけども、その悲痛を越えた、あるいは越えるべく意識を内から外に向けた辺りから彼の曲は変化し、平易なラブソングではなくなって、より浸透性の深い愛の唄に変化しているようだ……、と当方ひそかに勝手に考察なんぞしちゃったりして、そんな風に考えさせてくれるシンガーという存在に興を惹かれてもいる。
ま~、そんな理屈はどうでもイイか。ハッハッハ。
ともあれ数時間、好んでいるミュージシャンとすごせる至福は何事にも代えがたい。打ち上げ時の差し入れ、M.Wakameちゃんのポテトサラダとキモ煮もメチャな御馳走でござんした。
ロシアのナワリヌイ氏の不可解な”突然死”や、ミャンマーの非合法政権による徴兵制発動での若者洗脳化、などなど、いまだ人類が中世だの戦国時代だのの暗澹真っ暗な中にあるコトを証しているようで、ニュースが耳にはいるたび、いよいよこの浮世が嫌になっちゃうのだけども、音楽は、嫌になっちゃう時代の中でほぼ唯一の光明のような気がして、いけない。
政治的空気の中の小汚い戦慄の、その真反対な美しき旋律のみが、今のところは唯一のヒトをヒトたらしめる奏であり、砦なんだろう。
と、ま~、そんな思いに駆られもしつつ、身近にいてくれるミュージシャンズに濃い有り難みを感じている今日この頃。