映画『ジョジョ・ラビット』は、いささか珍しいタイプの破壊力ある傑作だった。
巻頭での、ナチス政権がもたらしてくれるであろう明るい未来を信じて熱狂するドイツ国民の記録映像とビートルズのドイツ語版『抱きしめたい』の取り合わせにめんくらい、けどもオモシロイ試みだな、なるほど、ヒットラーに向けての愛とて、かつて本当にあったワケで、そこにラブ・ソングを介在させておかしくないや……、次の展開はいかにと期待したものの、冗長なギャグめいたシーンの連打にヤヤ退屈をおぼえ、途中まで観て、そのまま放置していたのだけど、去年10月だったかプチパインのY子さんが、
「観たか?」
問うてきて、こちらが全部観ていないと判ると、ふくよかモナリザ的な謎の笑みを浮かべて口を閉じたので、
「おやっ?!」
と思った次第。彼女が微笑のさいは要注意だ。
帰宅して、あらためて全編とおし観た。
微笑の謎が解けた。当方も喜色した。
で、以後、再見するコト複数回。
この映画、スカーレット・ヨハンソン演じる母親の不幸あたりから味が染み出しはじめる。
鍋が煮えだすんだ。冷めて硬い素材たちが、ニンジン、ポテト、オニオンたちが自身の味を発揮しつつ、合唱をはじめるんだ。
法外な黒雲のようなユーモアと激痛めいた真面目が2つの車輪となって駆け続け、周辺の影響でヒットラーを教祖的に仰ぐ10歳の少年と、少年宅の屋根裏に隠れ住む16歳くらいの少女とが、1つのお鍋の中で煮たって……、驚くべきな結末部分へと至る。
ごく個人的にはナチス将校役のサム・ロックウェルと身長2mのゲジュタポ役のS・マーチャントの、辛辣と滑稽スットボケ共存の面白さにも眼を奪われたが、主題を際立たせる重要な役回り。
最終シーン、リルケの詩編が英文で出て、その背後でかのシンガーのかの象徴的な曲がドイツ語で流れる。
日本語字幕は、リルケを訳して出てくるけど、背景曲の日本語訳は出てこない。
Let everything happen to you
Beauty and terror
Just keep going
No feeling is final.
-Rainer Maria Rilke
すべてを体験せよ
美しさも怖さも
活き続けよ
絶望が最後じゃない
-リルケ
この4行はリルケの3部構成の大作『時禱書』、「Go to the Limits of Your Longing(直訳すれば「憧れの限界へ)」の後半部の引用だとおもう。
岩波文庫『リルケ詩集』で翻訳を探したが、全13行(英語版では)と短い作品ながら本書では割愛されているようだ。残念。
映画での詩の活用は……、リルケが悪いわけはないけども、実は、この一点が激烈に惜しい、とボクはおもうんだ。
おそらくは、映画化にさいして原作者との取り決め、ないしは原作者の要望として映画のラストをその文字で括れという次第があったように思えるが、こと字幕に関しては、むしろ、いっそ、流れる曲、ドイツ語で唄われるその歌詞を訳して見せるべきだったと、強く思う。
それを日本語として書けば、こうなる。
僕が王になり
君は女王になる
誰もそいつらを追い出せないけど
そいつらを打ち負かせる 1日だけなら
僕たちはヒーローになれる 1日だけなら
僕は思い出せる
壁際に立つ
頭の上で銃声が鳴り響く
何事もなかったように僕たちはキスする
恥ずべきはそいつらだ
僕たちは永遠に打ち負かせる
僕たちはヒーローになれる 1日だけなら
ほぼまちがいなく、監督を務めヒットラー役も演じたダイカ・ワイティティは、クリスティーン・ルーネンスの原作「Caging Skies」(翻訳本は出ていない)を映像として膨らませたさい、リルケ詩編のそれではなく、かの歌の意味するところと歴史的背景を中心に置いて映画を組み立てたに違いない。
あの歌、ありき。
いっさい、そこに持っていくがための展開だったよう、思える。
彼は原作をうまく捏ねて団子にし、ブラックペパーじゃなくブラックユーモアとスラップスティックな辛みをたっぷりまぶしたストーリーに組み立てなおし、そのうえであの結末に持ってった。
映画化の根底には、1987年の、ベルリンの壁の前でのあの時のライブが監督の脳裏にあったろう……、思える。いや、確実にそうだろう。
(やたらと、“あの”と書いてるのはネタバレとなるのを警戒してのコトだよ)
圧巻のラストといっていい。
街頭に出た少年と少女がゆっくりゆっくり身体を揺らせ、リズムとなり、やがて表情が緩んだ途端、画面は暗転し、かの曲が大きなボリュームで流れる。
この演出にギャフ~ン。一気に涙腺を破壊された。
子供を中心に据えた反戦映画程度に思って見始めたのが、大きなマチガイ。
何より主役の少年と少女がダントツに良く、まるでこの2人はこの映画のために生まれてきたんじゃないか? と訝しむホド素晴らしい。
その起用の上での話の流れ。ラストのドイツ少年とユダヤ少女2人のみのセッションの凝縮。
少年の中の転換と溶解、少女の中の困惑と怒りと次に来る許しの姿勢の萌芽。
それを2人の身体の揺らぎで見せた演出の超絶な冴え……。
で、あの曲のガツ~ン!
構えていたこちらのミットにまったく予期しなかった剛速球が飛んできた、その驚愕と狼狽。
こういう手法もあったかぁ! かろうじてミットに収めると同時に嬉々させられ、一気に感涙。涙でベベチャになった頬っぺを拭うんだった。
ま~、何度観ても、このラストであったかい涙がこぼれちまって、それはそれで困ったもんだけども、“受け入れる”ということの大事をこの映画でも諭され、過日に買ったまま未封切りのBlu-ray『ベルリン・天使の詩』をそろそろ観なくてはとも思ったりしつつも、主役の2人のラストシーンでの笑顔に永遠の乾杯だ。
未翻訳の原作はおよそコメディには遠いシリアスな内容で、結末もまったく違って暗く閉じられるようで……、なので、映画はあくまでもインスパイアされての成果ということになろうけど、これはこれで翻訳版がでれば読んではみたい。
ぁ、いや、たぶん、映画とは異なると思えば、手にしても……、読まないような気がしないでもないが。