3日前のテレビ……。岡山・香川エリアで見て下さった複数の方々より電話やらメールを頂戴し、なんともくすぐったいような感じ。
「バック・トゥ・ザ・フューチャーのドク博士風で良かったよ」
と感想したヒトもいたりで、いつもの我が友sunaちゃんを含め、画面を写した写真が何枚も届いた。
私がTVを持ってないのを皆さん知ってるんで。(見る時はマザ〜の部屋で)
収録に半日ばかり費やされたものの、10分ほどのシーンに要約されての放送。刈り込まれたような感触と、ま~、こんなもんでっしゃろという感じとの2極が交錯しつつも、見た方々にとっては、別の感慨があるというようなコトをも含めて、いささか愉しくもあったし、10分ほどに良くまとめてくれたな~、と感慨も深かった。
テレビでは初公開となる、亜公園内天満宮の模型にCG処理を加えた我が作品。
拝殿の横に硯岩が立っている。
岡山神社内の天満宮紹介から甚九郎稲荷にある亜公園遺物の紹介と、シーンは高速で進む。
足下は金網……。下、丸見え。
腰が引けてる電波塔屋上シーンには苦笑したけど、かつての亜公園・集成閣と現在のRSK山陽放送新社屋の電波塔をオーバーラップさせて映し出してくれたのは、す・ご・く、嬉しかった。
明治と現在をリンクさせたいと願って当方は講演なんぞをやってきたワケだけど、シーンとしてそれが具現され、
「ぁぁ~、テレビって、そういう風に出来るんだもんなぁ」
ちょっと羨ましくもあった。もちろん講演でiPadを使って似通う演出は容易なんだけど、聴衆100人前後と数万の視聴者という違いが……、でっか過ぎなんで。
RSK山陽放送の天神町の新社屋は、建造に2年弱、放送設備の完備におよそ1年と、3年くらいの日数を要したようだけど、130年ほど昔の同じ場所にあった亜公園の建造はというと……、わずか半年だ。
そのことは、亜公園が発行した本『亜公園漫録』にも記されているのだけど、あまりに期間が短くね~かぁ、と訝しんだもんだ。
それで、岡山県を代表する建築史探求者でらっしゃるN女子大のU教授の元を訪ねて、お聞きしたところ、
「半年で出来たでしょうね」
多数の家屋の集合体である亜公園とはいえど、意外や、それっくらいの日数で完了するという次第を教わって、
「へ~~っ」
感嘆したもんだ。
当然そこには木造家屋建造のエキスパートがいるのが前提ながら、ある種のフォーマットもあり、ノウハウもあり、設計から施工までの合間に思い悩むことがなく、淡々と作業すれば半年で無理がないとのハナシなのだった。
まして建造者の片山儀太郎は木材商なんだから、資材とても潤沢だったわけで。
むろん、木造7階建ての集成閣には、設計段階で苦労があったろうし、大工や左官や瓦職人たちも初のチャレンジゆえに重圧はあったろうけど、逆に、初となるでっかい塔の建造に“萌えた”り”燃えた”であろうことも、これは想像できるのだった。
ま~、以上のことは、この前のテレビで語ったわけでもないけど、放送のための放送局の工事というのがとんでもなく面倒で大変なコトという次第は、ちょいっと理解もした。
出来上がった社屋の床下やら天井に膨大な数のケーブルを這わせ、その動作テストを行いつつの工事は、明治の大規模工事とはニュアンスが違うわけでもあって……、その新社屋が全面起動した日の放送の一部に登場できたことは、幸いとしか云いようがないのだった。
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以上の放送があった夜、amazon Primeで『嵐電』という映画を観た。
京都太秦撮影所の仕出し弁当屋だかカフェに勤める若い女性と新人俳優、妻を失っているのか離れて暮らしているだけなのかよく判らないルポライターが話の主軸で、ライターは井浦新が演じてた。
それにくわえて、8ミリカメラで路面電車の姿を追う高校生と、その高校生に恋慕する青森からの修学旅行の女子高校生がからむ。
全編同時録音なのか、音声は聞きづらい。青森から京都に修学旅行で来ている高校生の話も混ざるので方言の判りにくさと相まみえる。
3つの恋愛模様がゆるやかに描かれているが、描写は淡々でなかなかドラマが動かない。
観光としての京都はいっさい出ず、どってこともない生活の場としての京都とそこを駆ける嵐山電鉄の路面電車が出てくるきり。
そのスローモーな電車の動きと恋愛模様の描写が似た速度で進む。
そのユッタリリズムはテレビ向けでない。仮りにテレビ放映されたとしても、おそらく、チャンネルを変えられてしまう。
たまたま当方はこれを部屋を暗くして大きなスクリーンで観たのだけど、意外なほどに“映画”が意識されるのが妙だった。
で、映画半ばでやっとドラマが動き出す。というか、怪異がおきる。
車掌姿のタヌキとキツネの変化妖怪みたいなのが唐突に出てきて、細い川の流れの中に小さな波紋が浮くような転回が生じてくる。
けれど、妖怪も大きな役割があるようでもない。
唐突に映画内の時間が飛ぶが、それを説明する場面もなくいっさい解説がない。
観つつ、
「ぁ~、これはテレビドラマじゃないなぁ」
ことさらに、映画とテレヴィジョンの違いをば意識させられるんだった。
流れている時間感覚がまるで違い、「これは映画だ~!」の空気が濃い。
そこを文章で顕すのが難しい。
けど、その事もまた、この映画の“映画性”を示唆している。
要は、映画でしか出来ない表現……、というやつだ。文章化できない性質が濃く、ことさら、その点が目映くって、だからこそ観つつ、
「ぁ~、これはテレビじゃないなぁ」
奇妙な味わいをおぼえるんだった。
傑作とは云いがたい。けども、何やら良性なモヤ~ッとした感覚が観ているさなかにも見終えたあとにも、残る。いわゆるテレビと違い、何かを感じようとしてコチラの気持ちが動くんだ。
たまたま自分が束の間テレビに出たりもしたんで、映画とテレビ、似ているけどまったく違う「見る」と「観る」なのだというコトを、あらためて身に沁ませてくれたのが映画『嵐電』。らんでん、と読むんだよ。
8ミリカメラという2昔ほど古いメディア機器を登場させ、過去の姿カタチを残す……、というあたりも、この映画はちょっと面白いアプローチをやっていて、好感だった。
岡山では去年にシネマクレールで1週間ほど上映されたようだが、しまったな、劇場で味わうべきだったわ。