甚九郎稲荷 まもなく夏祭

 

 岡南シネマでの『ブレードランナー ファイナルカット版』の、朝9時半からの毎日1回こっきりの上映。

 なんとか出向こうと算段したものの、結局、出向けず。

 ここ10日ほど、自宅改修で業者さんが出入りゆえ、家主が不在じゃ~ヨロシクないワケで、朝1回でなく、夜にも1回上映して欲しいと切望しきり。

 せっかくの4K画質を観られずで、口惜しや。

 

         懐かしい写真。同映画で使われた警察車両と故キャバちゃん……

 

 ま~、うらんでもシャ~ないんで、自宅のスクリーンでBlu-ray画質を眺めて「代用」とした。

 もう何度もナンドも、繰り返しクリカエシ観た映画じゃあるけど、眼をそよがせ、およがせるたび、新鮮がうずく。

 自分がこの映画封切り後に、マーチャンダイジング(模型に関しての)に関わっていたというコトもさることながら、何度観ても、新鮮が失われず、視聴環境によってはそれがいっそう尖鋭になる映画というのは、それほどアルもんじゃ~ない。

 

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  自宅の改修は高速道路の突貫工事じゃ~ないから昼間のみ。当然に夜は、あいてる。

 祭日の夜、ライブハウス・モグラにて、「OKAYAMA通天閣」の、いや、今回は「通天満」名義でのライブを堪能。元T-SQUAREのベーシスト須藤満をゲストに、32ちゃんはりきり世史紀ノリノリ。

 通常のステージは使わず、客席内で円陣を組んだジャムセッション・スタイルでの演奏。

 眼を細めたり、丸めたりと、存分に愉しんだ。

 ぁぁ、やっぱりライブはイイねぇ。

 

 3人のパートを換えての演奏。32ちゃんがベースで須藤さんがミニ・ドラム。で、世史紀がボーカル

 

 終演後、別場所に移動し、佐野元春の新たなアルバム話で盛り上がり、同アルバムに入ってるDVD映像を見せてもらって、カッコウ良く歳をかさねている男のカッコヨサを、これまた愉しませてもらった。

 

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 RSK山陽放送さんから連絡あり。

 きたる7月24日・25日に甚九郎稲荷のお祭。それに合わせ、同神社に隣接している新社屋の内部を一般公開するそう。

 で、その催事中、大きなスクリーンで、この新社屋のある場所のコトを明治時代にまでさかのぼり、甚九郎稲荷との関係をヴィジュアルで説明したいとの趣旨。

 むろんそれは、亜公園を指す。

 2020年11月に放送された番組「メッセージ」で、ボクが出演した部分を再編集して披露したい、とのコトらしく、フフフっ、良いハナシ。

 

 甚九郎稲荷は、岡山城の中堀が埋め立てられた明治14年(1881)に造られた。

 それ以前、江戸時代にはごく小さな祠だった。

 岡山城の中堀にかかった北ノ橋のすぐそばに、それはあったらしい。

 起源を特定するのは今となっては難しいが、現在の天神町にある有名写真館・島村写場のすぐそばに中堀があって、そこにかかった橋が北ノ橋。

 その橋の近くに、いつのまにか祠が設けられ、以後、おそらく、そこそこ大事にはされていたのだろう。それがオリジナル、初期の初期の姿……。

(宝永6年の地域誌『和気絹』には既に、北ノ橋の別称として甚九郎橋の名がみえる。宝永は徳川綱吉の時代だから、だいぶんと大昔に既に祠らしきが設けられていたと推測できる。橋の本来の名より甚九郎という人の名がクローズアップされているのが、とても興味深い)

 

 

 池田家文庫の江戸時代の図面をみるに、橋の長さは十二間とある。およそ22m! 

 今の天神町の様相からは信じがたい光景だけど、事実は事実でござい。

 これは弓矢の飛距離に基づいている。攻めてくる敵を弓で確実にしとめる事が出来、かつ、防御しよい距離としての十二間、なのだ……。なのでごく近くには弓使いを専任とし、いざとなれば橋での攻防を担う下級武士たちが住まう弓之町という町もある。

 江戸時代が継続して安定期に入り、武士は戦さをすることなく、次第に城勤めのサラリーマンになっていく。弓之町や番町界隈に住まう武士たち一同皆さん、登城のさいは風呂敷で包んだ弁当箱を持ってこの橋を渡って岡山城に向かい、夕刻、仕事を終えると、

「ぁ、これっくら~いの、ぉベントバコにぃ~♪」

 などと唱いながら空の弁当箱を手に、またこの橋を渡った。   

 

 やがて徳川幕府が瓦解し、城は無用になり……、明治14年になって岡山県は中堀の埋め立てを行う。

 その時にこの地域(上之町)に住まう方々が、橋のそばの祠をおろそかにしちゃ~いけないと、少し離れた場所に移動させ……、それを甚九郎稲荷と名付けた。

 祠から小さな神社へとバージョンアップしたワケだ。

 規模はささやかで、それほど立派なものでもなかったと思われる。

 上之町は江戸時代を通じて大火がなかったから、甚九郎稲荷は火除けの神さんでござい、という位置づけだった。

 

 それから20年ほどが経過し、亜公園が閉園した。

 亜公園は明治25年にオープンし、大賑わいの日々が続き、界隈(上之町や天神町など)の商店にも大きな潤いをもたらせていたけど、当時、日本が日露戦争に勝利し、日本全国でそれを祝う機運が一気に昂ぶって、岡山県では、初となる図書館創設や県会議事堂などを造ろうというコトになる。(戦捷記念図書館 ― 現在の岡山県立図書館はこれがスタート)

 それで、広い地所が必要となり、亜公園に白羽の矢がたった。

 天神町の懸庁の真ん前という好立地。家屋も含めて地所いっさいを岡山県が買い取るというコトで、明治39年(1906)に閉園。

 県が買ってすぐにモンダイとなったのは、同園内にある天満宮だ。

 そもそも亜公園がある天神山は、かつて菅原道真が九州太宰府に強制左遷されたさい、京都から同地に向かう旅の途中で休憩したという伝承のある地で、それゆえに天神山という名がついている次第。ゆえに、それをテーマにしての“娯楽施設”だった。

 日本におけるテーマパークの第1号という事をこの数年にわたって吹聴したおかげで、割合と多くの方々が賛同し納得してくれているのが、ありがたい。

 

 亜公園の天満宮はゆえに豪奢な造りで、園の要め、核となる施設なのだった。

 

         講演用展示物として造った亜公園の集成閣および天満宮の模型〔一部)

 

 いっさいを買い取った県としては、神さんがらみの天満宮をおろそかに出来ない。

 道真は学問の神様ながら、一方では強靱きわまる祟り神でもあるわけで、怒らしちゃ〜大変だぁ。

 それで上之町に天満宮を移設出来ないかと話しを持ちかける。

 上之町には甚九郎稲荷がある。それと合祀し、さらに新たな場所として県所有のすぐそばの土地の提供を申し出た。

 その頃、上之町でイチバンにでっかい顔をしていたのが、光藤亀吉だ。

 彼は北ノ橋そばの祠を移動させ甚九郎稲荷にバージョンアップさせたメンバーの1人であって、明治39年時点では県会議員でありモロモロな会社の社長職やら役員を務める影響力ビックな人物であったけど、彼もプランに快諾。

 光藤はそのプランに自費をもくわえ、天満宮遷座に尽力した。

 こうして甚九郎稲荷は道路のアッチからコッチに移動、拝殿や本殿や石柱など豪華な亜公園内天満宮を移設し、バージョンアップ・パート2、かつ、グレードアップしたワケなのだった。

 毎年7月24、25日の祭りは、この移動遷座の後、亜公園なき後の天神山界隈の賑わい創設を主眼に実施されるコトになる。(ながくなるんで今回はそこの解説はパス)

 

      現在の祭りで使われている太鼓ダンジリ。オリジナルは昭和20年の空襲で焼失

 

 ともあれ、明治39年甚九郎稲荷は現在の場所に遷座した。

 管理は岡山神社がおこなうというコトに落ち着き、今もそれが続いている。

 空襲までは、なのでその明治39年遷座をクッキリ示す形のままだった。今の拝殿も本殿も戦後に復旧させたもんで、規模もカタチもずいぶん縮小され今にいたってる。

 

 ……という次第で、甚九郎稲荷というのは、亜公園の面影を残し、かつ、その思い出が濃密に詰まった場所なのだった。

 いま現在、RSK山陽放送の新社屋がドッデ~ンと建つ場所は亜公園と同じ地所であり、ヒストリーとしてのその場所の過去を伝える務めを、同社は持つ。

 

 番組『メッセージ』の1コマ。岡本太郎レリーフのある山陽放送新社屋の左手の赤い家屋が甚九郎稲荷

 

 そういう流れの中、甚九郎稲荷の祭という機会に連動させて、同社内でもってボクが語っている映像を使って公開するというワケなんだ。

 

                番組『メッセージ』の1コマ。

           こんなシーンもあり……、だけど何かジジイっぽい

 

 詳細は聞いてないんで、上映時間や規模も今日時点じゃよく判らないけど、もし、24、25日に甚九郎稲荷界隈に出向けるようなら、すぐそばの山陽放送も訪ねたが良い。

 でっかいスクリーンの中のボクを見て、

「ぁ、やっぱ、いい男じゃん」

 てなコトではなく、甚九郎稲荷が亜公園の延長にある神社だというコトをご理解いただき、チビリ、驚いて欲しい次第。

 詳細はRSKの夕刻の情報番組で告知されるんだろう、たぶん。