えきそば

 

 10月の末。S夫妻が姫路に住まう娘さんのところへ出向き、その帰り、当方宛の土産を持参してくれた。

 かねて姫路での「えきそば」のことを当方より話していたので、その現物をわざわざ買ってきてくれたワケだ。

 しかも2割引きのを。

「こんな割引品をお土産って、いけませんよねぇ」

 Sさんは申し訳なさそうにアタマをかくけど、ぅんな~コタぁござんせん。むしろ、姫路の日常リアルがその2割引きシールに刻まれていて、いっそ極上のお土産なのだった。

 

 姫路に本社がある、まねき食品の蕎麦。

 蕎麦と漢字で書くより、ひらがなで「そば」と記すのが似合うと思うし、事実、製品も「えきそば」とひらがなで書いてある。

 

 

 この会社の創業は明治21年。

 で、翌年、神戸~姫路を結ぶ山陽鐵道が出来るや、姫路駅構内で「幕の内弁当」を売り出した。

 これは「駅弁」の初事例で、だから当然、「駅弁」のスタート地点は姫路……、というコトになる。

 我が岡山での「駅弁」の最初は、三好野(みよしの)だけど、これは明治24年、山陽鐵道が姫路から伸び、岡山と結ばれてのこと。

 翌25年に亜公園が開業するのだけど、三好野の経営者・若林加之(かの)は亜公園のオーナー片山儀太郎と結託し、岡山観光の目玉として同園のことを位置づけたよう……、思われる。これはおそらく岡山における『観光業』の初事例だ。(当時、片山家と若林家はごくご近所でもあった)

 事実、亜公園内天満宮の梅鉢紋灯篭は三好野の寄進によるもので、さらに、現在は甚九郎稲荷境内にある「集成閣案内碑」は、本来は岡山駅前の三好野のそばにあったと推察できるんだけど、今回は岡山のことは置いて、姫路のまねきの「えきそば」だ。

 

 日本で最初に「駅弁」を創ったまねき食品は、戦後、昭和24年に姫路駅でおそばも売るようになる。

 というか、お米が統制品なので弁当を大量に作るコトが出来なく、ならば……、というのが真相だったろうが、そば粉も満足に流通せず、小麦粉も統制がかかっていて配給される量は微量という物資不足の時代。

 同社は小麦粉でなくこんにゃく粉とそば粉をまぜあわせて麵を造り、これを販売した。構内で弁当を売る発想といい、こんにゃくを用いた点といい、この会社のチャレンジャ~な柔軟さが素晴らしい。

 当然に不安混じりであったろう。けども、売り出してみると、大好評。

 同社HPによると、販売価格50円。うどん鉢も戦後で流通しておらず、空襲被害がなかった出雲今市まで買いに出かけ、それを使用(出西窯かな?)。

 蓋付きの瀬戸物だから、列車に持ち込んで食べた方が多くあったようで、食べ終えた後日にうどん鉢を持参すれば10円で引き取った、そうな。

 

 連合国GHQの統制から解放された昭和27年(1952)、物資流通が概ねで正常化して、こんにゃく粉から、かんすいが入った中華麺に変え、さらに和風だしに変えた。

 いわばミスマッチ(同社のホームページにもそう記している)。うどんと中華蕎麦の真ん中あたりで、でも、そのどちらでもない断固オリジナルの「そば」という位置づけだ。だから蕎麦じゃなく、「そば}。

 で、このオリジナルを「えきそば」と名付け、今に至ってる。

 

 「えきそば」、はじめて、食べた。麵がヤヤ白っぽい。上写真はいささか白が強すぎ。もすこし黄ばんでる。

 一口、啜って、メッチャにうま~い……、といえば嘘になる。2割引プライスだから味も差し引いたワケでない。

 けど、おいしいコトは確かで、小エビが中央にあるテンプラが良いアクセント。麵も良いし、お汁も良い。(七味は製品に入ってる)

 気づくと、お汁全部飲み干していた。

 食べて数日経つと、妙にその味を思い出し、またぞろ食べてみたくなる。マクドナルドのビッグマックを定期的に欲する気分に、似てる。

 

 こりゃ~1度、姫路に出向かなきゃ~イカンなぁ。

 いや、実のところ、おっ友達のKosakaちゃんに会うたび、彼に、

「姫路駅に、えきそば食べに行きませんか」

 勧誘されてたんだ。

 けど、駅のそばを食べるためだけに姫路行きってどうよ……、と訝しんでいたのだけど、こたび、撤回だ。

 機会つくって、いっちゃお~~~。

 姫路駅構内だけで何と5ヶ所5店舗もある上、駅のすぐソバにもあるそうな。