12月の柿

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 岡山駅前の北側にあるソフトバンクテレコムの電波塔。

 夕刻、たくさんの鳥が群れて羽を休めてた。

 鳩か? ツグミか? ヒヨドリか? ムクドリか?

 

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 やや遠目からなので、何鳥かがわからないけど、丸っこい形状から推測するに、トンビやカラスには見えない。サイズとしてはムクドリに思えるが……、どうだろ?

 これだけ数がいると、糞害も甚だしいだろうから、ソフトバンクも憤慨すら~ね、たぶん。

 

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 いっせいに飛び出さないかしら? そうしたらヒッチコックの『鳥』めいたシーンになるのになぁ。しばし眺めてたけど一向に動じる気配がないんで、しゃ~ない、見上げるのをやめ、こちらが動じてスタコラさっさ、駅方面に向かった。

 

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 ちなみに、1709(宝永6年-徳川綱吉が死去して生類憐みの令が解除された年)貝原益軒が出版した『大和本草(明治以前の博物学的書物としては最高峰にあるらしき本)によれば、ムクドリは当時、食用であったらしく、「味よし」との評価があるそうな。鳩と同じくらいのサイズでもあるんで、食ってみたいもんだ。

 クリスマスなのでフライドチキンがアタマに浮いたわけだけど、ま〜、ホントに旨いかどうか確かめる気分で。

 

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 近所の空き家の庭。その垣根そばに、旬をとっくに過ぎ、ただ寒風に揺られている柿の実あり。

 最盛期には路地に大幅にはみ出し、実ったのが多数、頭上で垂れているというアンバイなのだったが、誰採るでなく、鳥もついばみ飽きて、放置されるまま朽ち続けている。

 なにやら風情があるようでもあり、ないようでもあり、けども、光景のアクセントとして、赤色のみが眼にはいる。

 ベツダンこちらは意識していないはずなのに、赤が飛び込んでくる。柿の実そのものは動じないのに、赤のみが自由運動し、バビュ~ンってぇな勢いで入ってくる。

 寒々しく、祭りの後っぽい寂寥も感じ、しかしどこか、眼が微かに潤うような感じも、なくはない。

 

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 空き家のそれを眼にするたび、何かのSF映画だかで、ヒロインが奇妙な形に茂った樹木から赤い実をもいで口に運んでるシーンがあって、そこだけが妙に印象されたのを思い出す。

 たぶん、赤という色にボクは反応しただけなんだろうけど、蕪村ならば、そこで峻烈な一句を産むだろうなぁ~、とも思ったりする。

 

 蕪村には、こういうのがある。

 つゝじ野や あらぬところに 麦畑

 つゝじ野というのは、ヤマツツジの赤い花が咲いている頃のことを指すんだろう。5月か6月の初め頃か……

 となれば、麦の麦穂は先端あたりがヤヤ黄色がかっている頃でもあって(7月が収穫時期)、蕪村はその色彩の対比に鮮烈したんだろう。

 

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 ゴッホのような黄色に向けてのパッションじゃなく、赤を基点にしての大地の幾何学的ダイナミックと、うつろう季節の中でのヒトの立ち位置を、思ったんだろう。

「あらぬところに」という七語に、大地にしがみついて生きているヒトの営みの憂愁が写されている。常々に景色に眼を向けている蕪村ですら予期しなかった場所に、その麦畑はあったんだろう。

 だからパノラマティックな広角な景色じゃなく、ヤマツツジがあるような狭窄の山野に、畑がポツリとあって、自ずとそれは人の営みを示しているワケであって、

「ありゃ~、こんな場所にもヒトがいるんだぁ」

 って~な感慨を五・七・五に圧縮したんだろう。

 

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 そんな意味合いでは、空き家の柿は、当方に詩情をもたらす触媒なのかもしれないけど、朽ち果てて路上に落ちてベッチャリしたのもあって、踏んづけちゃ~タイヘン、

「気ぃつけて歩くんだぞ、ここは」

 ただ単に、警戒いざなう信号としての赤なのかもしれない12月の……、柿。

 かき踏めば 靴はワヤやと 顔あからめ