甚九郎稲荷-夏祭

 

 恒例。甚九郎稲荷の夏祭り。毎夏7月24.25日に催される。

 上写真は24日の夕刻。西日が朱色のコントラストをいっそう強めて目映いばかり。なんか画像処理したみたいに赤が際立ってるけど、処理なしのホンマ写真だよ。

 女性がいてチョット判らないだろうけど、この拝殿の後ろにある小さな本殿が直に見えるよう拝殿奥側の壁戸を開けていて、そこから光がさして、なかなかな“絵”になっていた。神社は拝殿の後ろに核となる本殿なり社があって、通常は「お隠れ」になっているのだけど、こたびは女性が立っている所からヤシロが見えている。なかなか良い。

 

 お隣さんとなったRSK山陽放送も、昨年に次いでこの祭事に併せてイベント。

 岡本太郎の巨大作品の横手で生の音楽が演奏され、チョイっとよい感じ。地域に根をおろすには地元の祭をおろそかにしちゃ〜いけない。山陽放送さんの参加は、なので良し好しヨシの好感三拍子。

 

オカリナ四重奏と琴という組み合わせ。いい感じ。色違いのお揃いのワンピースもチャ〜ミングでごんした。

 

 ——— 10年以上前、亜公園探求のスタートとなったのが、甚九郎稲荷だった。

 その時には、まだ何も判らず、点として稲荷があり、今は山陽放送社屋となった場所に亜公園があったという2点があったきり……。

 雲をつかむようなアンバイだったけど、その切れっ端に糸をつなぎ、結わえたりほどいたりを繰り返す内に、やがて、その2点が岡山神社につながり、3点が実はとんでもなく密接な関係にあったという事実が浮き上り、その3角点はやがて5角6角と拡がってカドがとれ、大きな円となった。

 明治時代のそのリアルを伝えるべく岡山シティミュージアム関連の良き仲間や天神町界隈の方々に助けられつつ講演などを重ね、あらあら、もう10年以上経ってるんだなぁ。

 10数年前の当初は学芸員でもないただの模型屋が何をホラ吹いてやがんの……、みたいな空気を感じたりしたコトもあってヒリヒリと焼かれるような思いも味わったコトもあるけど、それらも含め、感慨深い。

 

 コロナ渦となって何かと不安ばかりが増大していた2021年4月に、亜公園と甚九郎稲荷のことを一種のレポートとして本『近代岡山 殖産に挑んだ人々 1』(共著:発行:山陽放送学術文化財団  販売:吉備人出版 - amazonでも買えます。岡山丸善には24日時点で2冊置かれてたよ ) にまとめたけど、これは最終じゃない。

 出版の後、さらなる展開がある。

 亜公園が現存した明治半ばの、その亜公園がらみの人と人の交流について、いささか驚くべきな事実があったコトが判りかけてもいる……。

 祭の場を味わっていると、なので余計に感慨深い。2023年夏の祭を味わいながら、明治後期の同稲荷の夏あたりへ、密やかにタイムスリップしている私……。

 


 動画は岡本太郎レリーフ前でのダンジリ行進。賑やかで好い好い。

 奇しくも、明治の半ば、ダンジリがいるこの場所に「天神座」というのがあった。亜公園内の芝居小屋だ。支配人は亜公園オーナーの片山儀太郎自身!

 大きな規模ではなかったけれど、今のライブハウスに通じる小屋だったようで、明治の時代、その界隈は笛・太鼓・三味線の音が連日響き……、当時のオシャレな若い人達も集っていたろうと想像できる。

 明治の時代にもとんがったヒトはいっぱい、いた。

 カッコいい彼ら彼女たちは時代の尖鋭となるべく、カッコ良さにいっそう磨きをかけるべく、集っては情報交換し、

「な〜、あの三味線のコの弾き方、見た? なんか凄くねっ?!」

 これまた当時もっとも新しかった食べ物「かき氷」を頬張って、コメカミをキ〜ンとさせつつ、くっちゃべっていたに違いない。

 天神座はカルチャーゾーンだったんだ!

 (上之町の氷商・九十九兼吉の出店が亜公園内にあって、夏期にはかき氷が売られていた。使われたのははるばる船で運ばれた函館・五稜郭の氷。いわゆる函館氷)

 そのあたりの文化史的ヒストリーをば、もっと多くの方々に知って欲しいと想わないではない。

 過去知れば今がより面白くなりもするんぞや