過日、コマンドのNaoさんが、
「太陽の塔 が、岡山にもありますぞ……」
と、雑誌記事のカラーコピーを手紙で送ってくれた。
電子メールでなく手紙というのがイイのだ。情報の味わいと重みが紙の中からピースサインをおくってくれる。
場所を調べると、真庭市の落合と判った。
しかもですねぇ、まったく奇遇ながら、いつか確認に出かけたいと思ってたボクにとっては謎の神社の近くじゃ~ありませんか。
という次第で、台風一過っぽいカンカン照りとなった日、2つの目的地めがけ、落合方面に駆けたのだった。
○○-○○-○○-○○-○○-○○-○○-○○-○○-○○-○○
まずは神社。
思った以上に規模ささやか。駐車場もない。でも清掃が行き届き、日々、しっかり管理されている気配は濃厚。
境内では、オリジナルの絵馬を販売している。お金は空き缶に入れ、絵馬1つを頂戴するという無人販売。
絵馬は直ぐに使われる。ここは勉学の神さん……、菅原道真を祀ってるんだ。
お願いを書いた絵馬が境内の一角にけっこうな数、ぶら下がってた。
「○○大学に入れますように」
とか、
「○○高校の○○科に弟が入りますよう・姉より」
とかとか。
だいぶんと前だけど、亜公園と菅原道真の関係についてを探索しているさなか、県内の道真情報の1つとして、この神社の存在に気づき、いささか気になっていた。
神社庁が公開している由来書きを要約すると、
① 道真が左遷の途中(901)に津山を経由して落合に立ち寄り、村人が敬慕して創建した。
② 天安2年(858)、通御(つうぎょ-普通は天皇ないし皇太后がお通りするという意味だけど、ここでは貴人としての道真を指すのか?)のさい、そこで食事をされたが、使った箸が不思議にも根を降ろし、成木し、それをご神木とする。
という2つだ。
探訪するに、神社庁が記載した由来書きの元になったらしき石碑もある。
しかし、かなり、変でしょ。
左遷時、京都からわざわざ山間の地を巡って津山へ向かい、そっから落合に南下するというような遠回りは、いくら大昔であったとはいえ、わざわざ何で? といぶかしむ。
なるほど、津山に住まっている人物たれば、落合に出て、そこから吉井川に沿って西大寺方面に出て、舟で備後国(広島)方面に向かうって~のはありそうだけど、京都からわざわざ津山方向に向かうよりは、大坂(当時はそんな名はないけど)に出て、平安時代以前から港として存在する難波津(なにわのつ)で舟を調達するのが、たぶん、当時の常套だったはず……。
②にしても、天安2年に道真が何歳かといえば、わずか13歳なんだから、これもねぇ……。
せっかくの由来にケチつけるのは申し訳ないですがぁ、無理があるなぁ、と感想し、それで謎だったワケなんだ。
そもそも、山間の地に、どうして道真伝承があるのか?
この神社の、書くに価いする特徴としては、拝殿の後方に本殿がないことだろね。そこにあるのは、樹齢千年クラスのイブキの大木。
この木が本殿そのものなのだ。神さんが宿る場所。
見上げるまでもなく、なるほど霊験あらかた……、おそらくは、この立派な巨木に神を感じた昔々の当地の方々が、その気分に上乗せで、道真を借用したのだろう。
そう思い決めて半ば納得しつつ境内を一周すると、やや真新しい、真庭市教育委員会の解説看板がある。大木の由来が書かれてる。
伝説によると天安2年(858)春、美作国守菅原是善とその子道真が高田庄(現勝山町)へ向かう途中でこの地で休憩し、昼食に用いた箸を立てたのが活着して本樹になったといわれる。
この一文のおかげで、謎の一部がとけた。
道真の父親である是善(これよし)が、京都より美作権守(みまさかごんのもり)として、この岡山県真庭界隈に派遣された地方長官職にあったことはマチガイなく、その子供の道真は天安2年当時13歳、ほぼ当然ながら、その父親のそばで育っていたろうから、道真と落合方面は、つながっていたのだった。
ネット情報だけにとどまらず、やはり、現地に出向いて見聞するのが、正解だねぇ。この神社の場合、石碑に残した由来を、新たな看板で「内容修正」しているワケだ。
こたびの探訪後にもうチョット調べてみたら、勝田(美作市)を中心に菅原是善を祖とする氏族がいらっしゃるのも知り、あらあらあら……、おどろいた。
道真失脚でその氏族は京都から追放されるなど、ひどく冷遇されたけど、のち道真が怨霊化すると、朝廷は祟りを怖れ、神宮寺(現在の北野天満宮)を新造、道真を神格化すると同時に菅原一族を復権させる。
道真の曾孫の1人は落合方面に定住し、やがて美作管氏という氏族になり、美作方面では有力な武家になっている。思わぬカタチで菅原道真の血脈がこの地で継がれているワケだ。
箸立神社の由来を「変」だなぁと思って探訪したら、道真との「縁」が横たわっているのをマノアタリにさせられた次第。
箸立天満宮は、明暗悲喜こもごもな菅原家の、その長大で大河物語めいた史実の中の1つの光点として今に残っているという感を、あらたに受けた。
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さぁさぁ。もう1つ。
岡山の、太陽の塔。
ありました。アリマシタ。
箸立神社から、北上するコト、車で数分。
県道313号線沿いの落合鈑金塗装(株)さんのお客様用敷地の端っこに、これ、ニョッキと立っておりました。
さすが鈑金屋さん。驚くなかれ、オール金属。
たたくと、カ~ンカン、乾いた音たてる。
近くによってしまうと、リベット打ちとかの製作状況が見えてしまうし、風雨にさらされての傷みも見えるけど、よく出来てます。
ホンモノのカタチの掌握がすこぶる良くって、しかも、金属ゆえでの滑稽味まで“創作”され、
「どうです。これ見て、笑顔になってくれますかぁ?」
って~な、この鈑金塗装会社さんの、茶目っ気あるユトリが感じられるようで、良かアンバイでした。
蝶番が付いていて、顔は左右に開くようになっております。このアイデアもステキです。
黄金の顔部分がバネで結ばれていて、ビックリ箱っぽくもあり、これも微笑ましい。というか、このアイデアがいい。
それが青空に映え、「落合の調和と進歩」が展望されているワケはないけど、ともあれ、アッパレ天晴れです。
背面の黒い顔もしっかり作られ、これまた金属。ホンモノをしっかり掌握していなきゃ~、これ、作れませんわね。思いつきでチャチャっとは作れませんぞ、まして金属だもん。仕事の傍ら、複数の同社の方々が「工作の愉悦」を甘受しつつ、日数かけたに……、違いない。
いや、違う。
仕事は後回しにして、これを図面化し、金属を加工し、ペイントして、数週ほど、大いに愉しんだに違いない。
モノ作りの「Hobby的醍醐味」の片鱗が窺えようというもんだ。
塔のすぐ足元では、稲穂がたわわに実ってた。なので、よりいっそう、めぐみとしての太陽を意識させられた。