利休 -4 ~茶壺道中~

金曜。
某模型たずさえ会合。
新資料が提出されて、若干の修正を施すことに。
面倒このうえないけど、嬉しい展開となって胸をなでおろす。


土曜。
OH君のライブのヘルプ。
開演3時間前、照明のテストと同時にステージ上ではS氏がピアノ調律。
あんがいボクは、本番より、この準備中がホントは好きなんだね。照明のK氏、ピアノのS氏ともどもベテランかつスゴ腕の実力者。バカ話しつつ淡々とステージ準備が進む… その具合加減が好き。
ぁあ、しかし終演後、また雨に遭遇。ったくもう……。



さて、また利休関連のハナシをしよう。
ある人には常識でも、こちとらにゃ……、そ〜でないというコトはいっぱいあるね。
たとえば、「ずいずいずっころばし」。
子供のころに聞き覚え、今だって、歌詞カード不要。チャ〜ンと唄えもする。

ずいずいずっころばし
ごまみそずい
茶壺に追われて
とっぴんしゃん
抜けたら、どんどこしょ
俵のねずみが
米食ってちゅう

ちゅうちゅうちゅう

おっとさんがよんでも
おっかさんがよんでも
行きっこなしよ
井戸のまわりで
お茶碗欠いたのだぁれ


しかし、この1行目から末尾まで、意味はさっぱり知らずなのだった。
意味も知らず、けども、歌詞もメロディもしっかり覚えてるという変テコなアンバイ。
お茶世界の方には常識な歌だったろ〜が、こちとら、そうでない。しかし、今やっと意味を知って、つくづく、江戸時代の様相に苦笑をするのだった。


そのスタートは慶長18年というから、家康がバリバリ元気な頃だ。
大坂にはまだ豊臣家があって、翌年に、かの大坂冬の陣がおきる。
そんな昔に、家康が呑んだり用いたりの茶は、宇治から取り寄せるというコトになっていたのだった。
アマゾンに発注し送ってもらうというワケでない。


毎年4月頃となると宇治から茶葉の生育状況の報告が届く。
それを期に江戸から宇治へ、空の茶壺が運ばれる。
茶壺はいずれも"名器"。その数100ケ越え。
なにしろ将軍様がご愛飲の品を入れる壺なんだから、警護もハナハダ物々しい。
茶の専門家(茶道頭や茶道衆など)も随行する。
総員1000名オーバーという、えらい規模での宇治行き。




宇治御茶壺記(1800年に模写されたもの)より 国立国会図書館


ここで声をビッグにしなきゃ〜いけないのは、江戸期、わけても将軍家では"茶の湯"は、最優先かつ最重要な位置にあったという次第だ。
江戸時代、外交はなく、あるのは国内諸大名をいかにコントロールして幕藩体制を維持するか、社交あるのみ。
その最前線の舞台が茶会なのだ。
江戸城では頻繁に茶会が催される。
全国の大名が相手。
大名は謹んで茶をうける。
そのあとは決まって、能の観賞。これがセット。
茶を点てる側も受ける側も、そこはキチリと儀式儀礼にのっとって、格式最上級でやらなきゃ… いけない。受ける側としてはその振る舞いこそが、次年度の査定に関わってくる。
茶の湯は、徳川家文化の中央ドマンナカに座った花の核なのだった。
岡山の後楽園はその文化ゾーンを今に伝える施設だと、捉え直す方が判りよい。
8つの庵と能舞台、茶畑、借景としての庭全域。池田家の殿さんは幼少時より後楽園で、いわば、江戸城での茶席の練習をやっていたと解釈してもよく、そ〜考えると、後楽園は豪奢な練習スタジオだったと云えなくもない。



さてとお茶の葉。徳川家の、その茶葉なんだから、チョ〜大事、かつ、チョ〜貴重なものでないとイケナイ。
そういう次第でもって、江戸と宇治の間を行列がいく。
なんせ権力の最重要課題なんだから、この行列……、メチャクッチャ、厳しい。
行列進行に障害あること、たとえば、人や馬が行列の前を横切ったというだけで、"茶葉が穢れる"というよ〜なアンバイ。
よってそのようなコトあれば、切り捨て御免なワケなのだ。
だから数週前から、道中に緊張がはしる。


茶壺道中の合間は、道中に住まう人民はピリピリする。
粗相あれば大変と、地元の代官やらが数週前より厳しく見張る。取り締まり出来てないコトで代官とその配下どころか、その藩自体、藩主が責められる。
そこで厳しさが徹底する。
農繁期であろうが、田植え作業などは禁止。
煮炊きの煙も出しちゃいけない。
お葬式などもっての他。
とにかく、息を秘めてなきゃイケナイ。
早いハナシ、ゴハンもろくに炊けないのだ。
それで、いつか……、唄が出来た。


ズイズイとゴマ味噌をすってたら、茶壺行列が来るというんで大慌て(追われて)、家の戸口をピシャリと閉ざし(とっぴんしゃん)、過ぎるのを待つ。
通り過ぎたら、ホッと一息で(ぬけたらどんどこしょ)なワケ。
俵の中のお米にネズミが入りこもうが追うワケにもいかない。
お父さんが呼んでも、お母さんが呼んでも、外に出ちゃだめだよ。
たとえ井戸のそばでお茶碗が割れる音がしても、誰が割ったかしらと外に出ちゃ〜ダメだよ…。


子供にいい聞かせる唄なワケなのだった。
といって、ボブ・ディラン的レジスタンスなものじゃない。むしろこれは子供が生きる上での慣習的生活処方の実態を描いた実録民謡的なもので、当然、おおっぴらには唄えない性質も濃く帯びていたろう。しかもそれを、とっぴんしゃんとかどんどこしょでもって巧妙に隠蔽もして……、ディランにノーヴェル賞なら、この唄にはノーベル飴賞くらいは差し上げたい、くらいな秀逸だ。


茶壺道中は、とにかく権威中の権威。
そこいらの住民だけでなく、大名クラスはもとより、御三家であっても、道中に行き当たれば、籠から降りて平伏しなきゃいけない。
大名行列よりも1ランク上なんだから、なんともはや… なトンデモな行列なのだった。



このトンデモない行列を制度化したのは、徳川家3代めの家光。
このサラブレッドは、あれこれと幕藩体制の礎となる諸々を決定した人だけど、茶の湯は別格に好んでいたようだ。
寛永17年には、かの秀吉が北野で催した伝説的な大茶会をはるかに越える規模で、茶会を実施。
江戸城内にそのためだけの数寄屋、書院、広間を新築した。
当日は大名クラスの連中は全員集合。豪華なお膳が500人分用意されていたというから、格段だ。
で、茶会が終わると、新築した家屋は取り片付けた。
いわば徳川家の権勢を見せつけたわけだ。
侘び寂びのアートが、権力維持の原動力となったワケで、利休が生きてりゃ、
「いささか主旨が違いまする」
と反撥したろうけどね。


ま〜、ともあれ、そのような次第でかの唄が今も歌われ続けてるんだ。
茶壺の道中だった東海方面の方にはアッタリマエのことだろうけど、そのアッタリマエを今、やっと知って… 感心してるのも何ですが。



ちなみに、毎年に使われる壺もまた、権威が増してくる。
安土桃山時代ルソン島界隈から輸入されたとおぼしき、通称「ルソン壺」100数個のうち、銘がつくもの複数あり。
福海・日暮・袖狭・旅衣・寅申・藤瘤・太郎・五郎・虹・梅木、
などと銘々され、「御壺」の総称をもつや、そこいらの旗本もビビッちゃう、壺そのものがお宝中のお宝というか、代々受け継がれ、とんでもない価値が付加されてるワケなのだった。
面白いなぁ。
ま〜、少なくとも、江戸時代のその行列通過の場所界隈に産まれなかったコトを、幸いと思おう。その上で面白がり、当時この道中を取り仕切っていた宇治の上林家、現在は老舗のお茶屋さんたる上林春松本店の茶葉を楽天に発注しようかどうか……、悩もう。