殿さんの茶の湯 part2

茶の湯の普及。仕掛けを造ったのは信長だ。
室町期の寺々でもって一気に萌芽し、同幕府歴代の将軍達を悦にいらせ、けどもあくまで嗜好的文化事象だったのを、パンにバターを塗って濃くみを増すよう…、政治事象に組み入れた。
無粋な田舎豪族の頭どもに、領土より茶事のための一品、名器名物なる瀬戸物に価値ありとブームさせ渇望させた信長はこのコペルニクス的大転回でもって、もっと顕彰され、この部分をより深く考察されてよい。
鉄砲の威力より茶の湯に、彼は豪快と深淵を見、五段活用フル動員でビジョンを描き、そう運ぼうとした。茶の湯でもって日本統一を企てたといっても過言じゃないだろう。
"名物狩り"なる過度な強制などやりつつも、平和主義への転換とはコトバが過ぎるけど、信長の中で変化が起きていたことはたぶんマチガイない。
けども、断たれた。



※ 九十九髪茄子(つくもなす)。室町幕府第3代将軍・足利義満が秘蔵した唐物茶入。代々が使い、15世紀末頃に村田珠光が九十九貫で購入し、その名になった。さらに後に持ち主が転々。千貫で手にいれた松永久秀が半ば脅され松永家の安定と交換のカタチで信長に譲った。
本能寺の変で焼けたと思われたが、奇蹟的に掘り出され秀吉の所有となる。


秀吉は信長の振るまいをコピー踏襲し、大いに真似たあげく、宗二(そうに)や利休を刑死させるほどの茶番をやらかして迷宮に踏み入り、そのあとをリアリストの家康がカタチとしての茶の湯の効能を引き継いだ。
大坂城落城で彼が手に入れたのは、最高権力と、秀吉が収集した名物の数々の没収的継承だ)
茶の湯の"しきたり的行動"の基礎基板は孫の家光あたりで定着したと思う…。



※ 徳川家3代目将軍・家光の肖像。


家光が鎖国で国を閉じるや、茶の湯はいっそう裾野を拡げてく。
戦闘がための刀が次第に美の含有率を高めて象徴的かつ芸術的なモノへと昇華したように、茶の湯もまた、利休の頃の生と死の端境における美学的何事かから、その理念は残したものの芸道へと昇進してった。
すでに戦国期ではない事実を事実と波及させるに、茶の湯の"定義"の変更もまたこの時点では必需だったろう。
安定剤の核としての茶の湯の政治的ルール化がここで起きる。
ルールの基板が硬められ、幾つもの茶道家元を興隆させ…、定着させてった。
求道が芸道に色を変え、所作という定形を産んで、ルールは時計みたいに動き出す。



※ 曜変天目茶碗(国宝)。家康の時代から徳川家が秘蔵していたらしきだけど、家光が乳母・春日局の病気見舞いに贈った。
実母より乳母に強く愛を抱いた家光…。その後は局の出身地・淀藩稲葉家が所持。それで「稲葉天目」とも云う。最近テレビの鑑定番組で国内で4つめが出たと話題になり、でも鑑定評価額が数千万だったので、「低すぎる。おかしい!」とニュースになったのが、この曜変天目


※ 曜変天目茶碗を贈られた春日局(かすがのつぼね)


茶を核にしたルールは、城内での茶坊主というカタチに良く示される。
幼い頃より茶を学び、所作を体得し、帯刀せず、剃髪ゆえに"坊主"ながらも歴とした武士階級の者たち(僧じゃない)。
かれらが茶の湯の手配、来客接待、案内…、諸事万端なんでもこなした。
茶事のみならず、秘書のようにふるまい、常にトップクラスの方々と接するから、禄はさほどでないけど階級は高いという、そこいらの武士を軽く凌駕する影響力ももった。
(茶坊主もピラミッド構造の組織なので位が高いのは1部のヒトね)
秀吉と利休の関係がより合理的組織的に再整備されたと思えばいいか。


この辺り、今の時代劇映画やTVドラマで殿さんが出てくる時に、まったく描かれず登場しないのは、何故だろね? 
きっと予算がないんだね…。実際は、江戸城にも諸藩のそれにも、城内には坊主頭で僧侶のカッコ〜の人物が多数いるんだけど、1978年の深作欣二の駄作『柳生一族の陰謀』あたりから、描かれなくなっちまっただよ。背景の細々よりも千葉真一たちのアクションを"見せ"たワケだ。ぅ〜ん、残念。



※ 式典準備中の茶坊主集団。1962年の東映映画『天下の御意見番』より。セリフのないシーンながら、城の規模、殿さんの格、とかが品良く描かれ、結果、映画に重層な深みが出てる…、とボクは思ってるんだけど。


ここ岡山、池田藩では「御茶道」という役職名がついて組織化され、城を機能させる重要な役を担ってた。
たとえば、5代目藩主の池田治政が天明元年(1781)の5月に岡山へ戻ってきたさいの記録が今に残るが、翌日早々には後楽園内をまずは視察、あれこれ「御茶道」に指示をした上で、翌日から6月の末まで2ヶ月、ほぼ連日に茶会を催している。
5月19日には城内の表書院で「御茶御稽古初めの儀」なる式典も催し、藩主家臣ともどもが茶事の稽古にはげむという構図を、「御茶道」が仕切ってた。
家臣たちも、武芸より、茶の湯の体得が大事というワケだ。


ちなみに、例の赤穂浪士たちが襲撃した吉良家にはその夜は80名前後の職員が寝泊まっていて、うち23名死亡、重傷16名という大惨事となったけど、死亡者の中には無帯刀の茶坊主(たしか15歳で、どこかの茶商の息子で、茶道役の見習いみたいな位置にいて事件の犠牲者にカウントされたと記憶する)もいた。吉良家が屋敷内に茶坊主を抱え(夜間の泊まりとして)るホドの"家柄格式"ということが、ここでも知れる。
昼間はより高位な茶道役が同家に駐在していたはず…。



※ 1960年の東映映画『水戸黄門』の江戸城内のヒトコマ。
このシーンでは訪ね来た武家の手土産を持って茶坊主が殿さんと応対させているんだけど、余談ながら、映画が娯楽の筆頭だった昭和30年前後の東映映画の絢爛は、素晴らしい。
むろん史実無視の娯楽作だけども、殿さんというトップの周辺の描写は以外や克明。なにより撮影規模、セットの大きさが圧巻。江戸城あたりのいわば格式のみが特化した"特殊世界"の描写に映画セットの綺麗キレ〜なセットセットした感じがピタリ符合して、価値あり…。



※ 『天下の御意見番』東映・1962より。将軍(デビュー直後の超イケメン北大路欣也)が茶をたて臣下(片岡千恵蔵)に振る舞うの図。


京都は宇治の茶葉を江戸に運ぶがための「茶壺道中」が、諸般の大名行列よりも上位に置かれるというケッタイもおきたのが…、江戸時代というもんだ。
(この詳細はコチラを参照)
茶の湯という形式をメイン柱にしたワケなんだ。


城内での茶坊主の存在は、たとえば、『梅津政景日記』で読み取れる。
梅津政景(うめづまさかげ)は、安土桃山〜江戸初期における出羽国久保田藩の家老ケン茶坊主の武将。
この人の日誌で、茶坊主の日常業務やポジションが推測できる。



岡山での茶坊主関連のエピソードを1つ、あげる。
池田慶政(よしまさ)が藩主だった万延元年(1860)の2月に、御後園(後楽園)専属の奥坊主筆頭・高取利全の娘と、御後園奉行(園の最高責任者)・安東金四郎の世継ぎたる子息清四郎とが、駆け落ちした。
惹かれ合い夢中になったんだね…。
明治になるチョット前だよ。
当時、そ〜いうのはゼッタイ許されない。ましてや両家ともども、藩主に直かに会うご身分の家柄。
探索され翌月になって2人は、現在の井原市でひっそり隠れて生活しているのを発見され、連れ戻され引き離され…、清四郎は父の金四郎に、娘は父の高取利全に…、首をはねられて死んだ。
(「池田家文庫」と「御後園諸事留帳」の2誌に記録がある)
タイムマシンがあれば、救ってあげたい若い2人とその父親たちだ。
痛いね。



※ 岡山・後楽園-栄唱の間。能舞台正面にあって、能見所(のうけんしょ)とも。


後楽園を舞台に、そんな悲痛この上ない悲恋もあったわけだけど、こういうのも今は知られていない。知って、近所のスーパーのポイントが増えるわけでもないけど…。
ともあれ、お江戸時代の殿さんの周辺には茶坊主あり…。
茶の湯が核にあった時代なのニャ。


またつづきます (^_^)